人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

イヴァンイリイチの『生きる思想』が描く人間というもの

 イヴァンイリイチの『生きる思想』を読んだ。この本すごく好きだ。

 人が生きることは、住むことでも搾取されることでもない。その人がその地において個人を育むこと、その背景には文化があり、その影響を受けながら、自分を自分で生きてゆく。モノによって生かされるのでもなく、モノのために生きるのでもなく、自分のために自分を生きる。

 歴史を辿れば、失われた文化が見えてくる。今や科学は誰のために何のために存在するのかよくわからないが、地球上のあらゆるものを資本として考えてゼロサムゲームになったのは、物理学のエネルギーという概念を読み違えたときからなのかもしれない。ジェンダーの概念が(悪い意味で)壊され、それによって人間は一つの生命≒コマとして扱われるようになり、あらゆる人間たちの責任は機械化され、制度化され、アイデンティティを喪失していった。開発によって、逆進性が生じているのだ。そうして社会関係は変化してゆく。人間が暮らす場所においても、誰のものかわからない共有地が増え、それが施設化されることによって「生きる」場所はすり減らされてゆく。車のために歩道や広場はなくなり、遊ぶことも語ることもくつろぐこともままならず、人間は閉じ込められてゆく。人間の役割は、専門家によって意思を奪われ、モノによって存在意義を奪われる。選択肢など、あってないようなものだ。奪われた人間たちは、自分のアイデンティティを、自分自身ではなく、モノの所持や肩書きなどの外部に求めるようになる。本来、人間の役割を補助する役割が主であったそれらが、人間にとって代わる。そうして、人間は意欲を失い、希望を失う。何かに縋れども、そこに己は存在しない。

 共同空間が経済的資本にとって代わられたときから、人間は市場に組み込まれてゆく。生きる技術を失った人間たちは、それに参加せざるを得ない。市場に生きる人間は物質的に豊かであれど、精神は満たされない。無力感による貧困は今も蔓延していて、それをそれと気付かずにただただ墜落してゆく。しかし、開発が飽和しつつある現在では、それに意を唱える者も多く、本来の「学び」によって生きる技術を取り戻そうという動きがある。市民運動であったり、資本主義によって形成される制度から逸脱した仕事を作り出す人たちのことだ。学びとは、教育の根源であり対峙する概念でもある。人間が人間たる生き方をするために、共有空間や慣習を用いて生きる技術を学ぶことである。搾取要因として容れ物にされるのではなく、自ら学ぶのだ。これは、先日読んだフレイレの『被抑圧者の教育学』でも同じようなことが書かれていたように思う。

 戦後史の教育特集を見ていたときに感じたのは、国や教育機関が目指すものは、生きるための知恵としての学びの教授ではなく、あくまで労働者の育成であり、国の技術発展を目的としているということだ。そこには、個人などというものは存在してはいけない。個人が生きることなどどうでもいい、技術発展にそぐわない考えは逸脱者として排除せよ。多様化など管理しきれないものは許さない。ヒエラルキーを崩す気はない。常に王と奴隷の関係がそこにはあるのだ。本文中にあるフーゴーからの引用によると、学問とは人間的生の3つの不十分さを癒す手段であるという。無知に対する知恵の探求、悪徳に対する徳の探求、肉体の弱さに対しては必要な生活の質を得る能力の追求。日本が目指す姿とはかけ離れているように思える。人間が人間たる意味は、そこにはあるのだろうか。

 また、生きる技術は、健康という概念に波及する。開発は技術の発展を伴う。それは寿命を延長させ、今や倫理的にはなされないものの不老不死に近づきつつある。医療という名のメンテナンスによって、その身体を維持する。健康の追求は、新たな病気を生み出してゆく。私は一応その方面の専門家なわけだが、生きることの追求をもしてきたつもりでもある。自分の身体を実験台にして、イリイチの言葉を借りれば、快の感覚や痛みの感覚に身体という場所を与えてきたつもりだ。この実験は永久に続くわけだが、それをすることで、生きることと生かされることの違いは感覚的にわかるようになってきた。昔は生かされることを生きることとして学ばされてきたが、それを否定する権利が(管理社会の中では生きられなくとも)あるのだということもわかった。自分の論文で、ある意味で生命を数値化することをしているわけだが、それに対する違和感もわかるし、また、それを敢えてやる意味が「教育」の下においてはあるのだということもわかる。生きることは難しい。権力の支配の下に、権力に個人を奪われた人たちにそれを認識させて行動することもまた、難しい。

 好奇心と違和感には、世間的に好ましくもそうでなくとも、忠実に生きてきた。違和感を同じように感じている人たちはままいて、ある人は社会に馴染んで個人を殺し、ある人は馴染めずに引きこもり、ある人は死を選択した。私はといえば、馴染んだこともあるし引きこもったこともあるが、今やどっちつかずで過ごしている。言いたいことが言えているものの、はたして次の場所で排斥されずに今のまま過ごせるのかはわからない。それでも、自分が間違っているとは思わない。間違っていることももちろんあるが、それはそう感じたときに修正しながらの今がある。私は支配されることに対する違和感をずっと抱いていて、そこに見え隠れする精神の貧困と常に対峙しているような気がする。それに流されてしまえば考えなくなって楽なんだろうけれど、そうしたくない。私というアイデンティティを喪失する気がするから。そして、その貧困は私の友人たちを追いやったものでもあり、また、昔の自分を殺したものでもあるから、私は私のエゴの下にそれを許さない。権力には屈したくない。イリイチが示していたのは、対象物の社会的背景ないしその背景を形成してきた歴史を知ることだ。それは最近本当に必要性を感じていたことで、その一つとしてこうして本を読んでいるわけである。歴史は積み重なっているもので、本を読むと、著者が受けた影響が至るところに散りばめられており、今回もフーゴーとポランニーに興味を持った。本は良書とそうでないものの差が激しいので、読んでこうして長々と思考できる本に出会えたことはこの上ない幸運である。最近でいえば、パウロフレイレ福澤諭吉広井良典さんの本は読めてよかったと思う。こうした人たちの背景もまた気になるもので、そうすると、アーティストも気になる。DIR EN GREYの京さんやTHE BACK HORN山田将司さん、菅波栄純さんは、その世界観に共通するものがあるように思うので、非常に興味深い。絵画で言えば、鴨居玲や昨日知った篠田桃紅さんなど。私が高校1年次に人間科学部に興味を持っていたのも、こういった内在要因があったのかもしれない。そう思うと、知識をつけるということは制限が増えることでもある。何も考えずに突き進めばよかった。というか、人間科学部なら転部できたのかもしれない。いや、後悔するのはやめよう。

 私は私の思う私を生きたい。それは望まれないものかもしれないが、それでも私はそうありたい。