人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

散らばっているから拾っているだけのこと

 何を考えているのか、と聞かれることが増えた。見下すニュアンスではなく、興味対象として。私にとってそれは嬉しいことだ。自分が他人のそれを知りたいと思っているから、その感覚がわかるゆえに、嬉しい。

 

 何を考えているんだろう。考え方はとにかく無秩序だ。気になったものがあればどんどん目移りしてしまう。だから、考えたけど忘れたものもたくさんある。私は、それらをもったいないなと思ってしまう。だって、興味が惹かれるんだから、それはきっと面白いことだったんだ。嫌だな、気に入らないな、と思う物事の引力は強いのだ。いいな、好きだな、は通過しやすい。その違いは、変えなきゃ、と思ってしまうこと。自分が主体になると、どうしても頭の中がそれでいっぱいになる。だから、嫌なものが気になってしまう。好きなものはピークが一瞬で過ぎ去ってしまう。

 好きなものや面白いことで自分の周りを埋め尽くしたいので、そのためには変えないといけない。変えるの対象は、自分でもあり、自分にはどうしようもないものはそれ自体になる。最近は、嫌なものの変え方を、楽しいと思える方法でやっている人に出会えたので、それがとても嬉しい。

 そう、こんな感じで話の軸が変わっていく。これまでの文章もだいたいこうなんだけど、私の中では連続している。何を考えているか、という問いの直接の答えは出てないんだけど、そのそばにあるものが気になって話が変わる。でも、いつの間にか戻ってまた考えている。その繰り返し。これはミツバチの8の字ダンスに似ているなと思う。花の近くにたどり着くと、8の字を描いて飛び回る。今はここの花や花の肢について考えよう、明日はきっと違う花が気になるんだろう。

 

 ゆっくりと考えるには、今はあまりにも情報量が多すぎる。道一つ歩くだけでものすごい情報量だ。昨日はとても空気が澄んでいた。ちょっと痛いくらいに寒く、その分空気も、空自体も、とてもきれいだった。そういう日は大抵星空がきれいなので、斜め上を見ながら歩く。オリオン座の下のやつはいつ爆発するのかなあと考える。クラムボンの2010というアルバムが大人しい星空と相性がいいので、聴きながら、歩くテンポをBPMに合わせてみたり2倍速にしてみたりすると、だんだん踊りだしたくなる。昨日なんかは、家を通り過ぎて、誰もいないところで少しだけそうしてみた。一歩間違えれば不審者で通報されてしまう。それでも、私は、そうしてみた。

 少し前に、「大人しいADHDみたいだな」と言われたので、いや自分はADHDではないと思うけどな、と思いながら調べてみた。そうしたら情報が少しアップデートされていた(http://adhd.co.jp/kodomo/#!naniga_symptom)。前よりもずっとわかりやすく、その対象は広がっていた。前は多動性・衝動性を強調しすぎるくらいに強調していたけれど、不注意もそれとされていた。今の社会ではわかりにくいから、潜んでいて、それでも何か普通にできない、なんだこいつ、と思われるのは、たしかに不注意のほうだ。不注意の群だと、忘れ物はしないし物もなくさないけれど、気が散りやすいことや集中しすぎることはまさしくそうだ。多動性・衝動性の群だと、乱暴ではないけれど、体を動かすことはやめられない。小さく、見えないように動かしている。とっても我慢している。大人しい子だと思われているけれど、とっても我慢しているのだ。小さい頃は手のかからない子だと言われていたけれど、我慢しているだけだ。我慢を解放していいときはなんとなくわかっているから、人の目がないところで、ひっそりと踊るのだ。

 今は、誰でも病気になることができる。想定外のことをしたら、「あいつは病気だ」。昔はそれが冗談の範疇だったり、ひどいところでは暴力の対象だったが、それが本当に病気になってしまった。はたしてどちらがよかったのだろうか。

 

 みんな怖いから、自分の身を守るために、線をたくさん引く。そうして、自分だけの居場所を作っていく。その線を辿ることで物事の関係性が見えてくるよな、と思うくらいには線があちらこちらにある。

 範囲を小さくすれば、考えやすい。物事の根本のパターンは案外数が少ないと思っている。あ、あれはこの前のあの話と同じ構造だな、と思うことはよくある。小さいと考えやすいが、小さくしたという自覚がないとまずいだろうなとは思う。

 線を超えて反対側から眺めてみたり、それを結ぶ頂点を見てみると面白い。頂点から見れば一次元、線として見れば二次元、立体として考えれば三次元だ。それ以上の次元はよくわからない。立体の時点で数学ならギブアップだ。役に立つのはとてもわかるので学び直したい。

 今ちょうど画面にぼんやり自分の影が写っているけれど、髪の毛が跳ねるのだって三次元じゃないか。くせ毛に関して言うならタンパク質の複次構造が問題か。

 

 何を考えているのか、という問いに対して、ぼんやり思ったのは、構造を無意識に模索してはいるかもしれないということ。それで、似ているものを分類していく。

 本当はそんなのは後付けにすぎないんだけど、最初に好きか嫌いかがどん、とあって、その後に理由を考えてみれば、勝手に分類してる気がする。

 人について考えるとすれば、その人は何のためにそれをするのかとか、そこに至る過程とかを見ていると思う。その人の出した成果にはあんまり興味がないというか、もちろん話を聞くきっかけとして打ち出されるものは成果の部分だから興味がないわけではないけれど、何に注視するかと言われたら、きっかけとか過程とか、どちらかといえば入り口の部分。成果とか方法とかは、環境とか考え方で変わるというか運の要素もそもそも強いからあんまり興味がない。絶対の方法なんてないし、真似するのはいいしやるべきだと思うけど、違う環境で同じものを丸々導入したって、その考え方の根本がわかっていなければ違うものになるわけで。

 話を聞いてみて、最近だったら、この人の考え方は自分と似てるなとか違うなとか偉そうに勝手に判断して、似てるときは自分とその人の考え方の違うところを探してみて、あ、これがあると良さそうだな、と思うことは取り入れてみる。あとは、似てる似てない関係なく、次の環境でこれはやれそうだな、とか、あの場所だとこういうことが起こりそうだからこれはあかんな、とか、そういうことを考えている。それは、自分が嫌な環境だったら変えたいな、と思うから、その予防線として考えていること。単純な興味の部分としては、なんでこの人はこれがやりたかったのかな、とか、きっかけが分かれば、その場所に自分で行ってみたいと思ったり、現実的に無理そうなら自分だったらどう思うのかなっていうのをシミュレーションしてみたり。この出来事がその人にとっての起点だったのかなとか、勝手にいろんなことに思いを馳せている。脳内なら自由だ。

 

 私は、中学校まで(と書こうとしたら今現在も継続中だとは思ったのだけど)、将来の夢がころころ変わる人だった。一番最初は何だったろう、花屋さんかケーキ屋さんか、よくあるやつだ。歌を歌いたかったし、曲を作りたかった。絵を描きたかったし、文章を書きたかった。デザインの仕事もしたかったし、服も作りたかった。鞄や帽子や靴、時計、それらに限らずものを作りたかった。カフェもしたかったし、本の仕事もしたかった。教科書も作りたかった。音楽療法にも惹かれたし、アスレチックトレーナーにもなりたかった。医者にもなりたかったし、青年海外協力隊にも行きたかった。カウンセラーとか養護教員とか、話を聞くこともしたかった。お坊さんになりたいと思ったこともあった。大学というものに憧れて、「大学生になりたい」と言ったこともあったし、その先の研究にも憧れた。思い出せないものもあるが、職業名を出せば、優に20は超えるだろう。熱しやすく冷めやすいと指摘したのは、小中高と一緒に上がったあの子だった。

 たしか中学校の頃だったと思う、自分で作りたい建物の絵を描けという授業だったか。それを全部詰め込んだ建物を描いた。

 欲張りだろうか。