人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

かわいい私たち

みんな、好きなものを見つけるのが下手だなと思う。
義務教育に慣れきっているからなのか、「やらされている」という感覚を持ちすぎな気がする。
行動を選んでいるのは自分のはずなのに、文句つけて、批判して、卑屈になって、何かのせいにして、逃げたり自分の身を守るのに一生懸命だ。
客観的に見ると、何言ってんだこの人とか思うし、ださいし、何よりも、かわいそう。自信がないことが丸わかりだから。
自慢する人もそう。自慢できる内容があることはすごいし、その内容自体は賞賛に値するけれど、自慢して人に認めてもらわないと自信が持てないのかなって思う。
卑屈になるのも、自慢するのも、私のことだ。
だからこそ、人がやっているのを見ると、気になる。

私は卑屈なときと、何でもかんでも素直なときと、別人のように性格が変わる。どちらも要素として自分の中にはあるけれど、どちらの割合が多いかで、一緒にいる人が変わるほどには性格が変わる。
卑屈なときは、本当に余裕がない。自分のことが大好きだから、自分のことを嫌いになる。自分は世界一不幸だと思いこむ。自分はクズだと思いこむようにする。不幸であることが人よりも秀でているとして、不健全なアイデンティティを形成する。そうしないと、私はきちんと日常を生きなければいけない。しかし、それがこなせないのもなんとなくわかっている。だから、日常に支障が出るんだ、自分は病気だから仕方がないんだ、と理由づけをしてあらゆる物事から逃げる。無能な自分はださいから認めたくない。だから、逃げる。
素直なときは、自分のことには興味がない。それよりも周りに面白いものがたくさん転がっているから、そっちのほうが気になって気になって仕方がない。意識が外に向かうから、自分の歪んだフィルターもかからない。その分、あらゆる物事を(捉え方を変えれば冷徹すぎるほどに)客観的に見ている。自分のことばかり考えているときは、他人を介して自分を見るけれど、客観的に見るときは、他人を他人であるとして、見ている。

「自分」以外の好きなもの(何か一つ熱中するでもいいし、いろんなものをちょっとずつ好き、でもいい)を持たないと、どんどん卑屈になる。それは、とても不健全だ。自分で勝手に自分の首を絞めているだけなのに、他人をこき下ろしたり、自分が悪いと言いながら他人を傷つける。みんながみんな、そういうのを「はいはい、自信がないんだね」とスルーできるわけではないから、そういった強烈な悪意に接すると、自分の中の卑屈さが引っ張り出される。それで負の連鎖が起こる。そういうの、もう飽きたし疲れた。

たまたまアドラー心理学を取り上げている本を読んだけど、私の言う卑屈さと素直さは、原因論と目的論というものに基づいているようだ。原因論は、過去の出来事(原因)によって今(結果)があるという考え方で、目的論は、目的を達成する手段として感情が生じるという考え方。前者はフロイト由来で後者はアドラーが提唱したらしい。
アドラーは、自分の生き方は常に自分で決めている、と考えていて、簡単に言えば、物事に対する自分の考え方次第なんだよ、と言っていた。引きこもりの例では、自室に引きこもれば親が心配してくれるけど、家から一歩でも外に出ればただのその他大勢になるから誰も自分を大切に扱ってくれなくなる、だから(もちろん恐怖などの感情も事実なんだけど結局自分で無意識に選択して)引きこもる。
まさしく自分がこの理論で引きこもっていたから納得した。卑屈な人や自慢する人のことも、私が先に書いたこととほぼ同様の理論で(もっとしっかり)書いてあった。
こういうことが書いてある自己啓発系の本はだいたい胡散臭いなと思うので、読まない。そもそも自己啓発の本は嫌い。結局、自分で何かしらの考えに至らないと、行動を変えられない。目や耳だけでなく、本心で納得しないと続かないから。じゃあなんでアドラー読んだのと言われれば、勧められたから。ちなみにアドラー自己啓発じゃなくて心理学ないし哲学だ。フロイト精神分析入門も読んだけど、今はあんまり卑屈じゃないのでフロイトを読むのが大変だった。卑屈なときにはフロイトが好きでアドラーは嫌いだ、って言うと思う。
私は自分に自信がないので、勉強の仕方とか教養のつけ方とかをよく調べる。本も読む。もはや調べすぎたのか、最近では何を読んでも薄っぺらいなと思うようになってしまった。その一方で、とても苦手意識の強かった古典を読み始めつつある。何を読んでも元を辿ると過去の遺産の引用がほとんどだから。言葉の違いもあるから一気に古典は無理なんだけど、そろそろ爪先くらいは突っ込める土台ができてきたのかな、と思う。
偏った読書をしてきたから、今が全範囲的に基礎教養をつけるタイミングなんだろうと思う。今を逃したら多分もうやらないから、今やる。基礎ができたら、時事にも向かえる気がする。そのときには、今よりももっと興味を深められると思う。自信をつけるための読書は、もう必要なくなったのかもしれない。精神分野の本とか生きづらさの本とか、自分を慰めるためにはもうそんなに読まなくてもいいなって。その代わりに、純粋に勉強したいなって思う。すごい人だって認められるための勉強じゃなくて、「自分自身」以外の興味対象について、ただただ知るための勉強。お金持ちになるとか、誰かを救済しようとか、誰かを論破してやろうとか、対人関係から生じる自己保身のための勉強じゃなくて、純粋な好奇心。普通の人が普通にやってることを、今ならやれそうだなって思った。

逃げるためだったり自分を守るためじゃなくて、自分がそれを好きでやりたいからやる。そうしたら、読書が逃げ場じゃなくて楽しみになった。行動は何も変わってない、物事の捉え方が変わっただけ。