人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

溺れるかの如く

 消費社会でおちこぼれています。量も速度も、私にはついていけません。

 そういえば、と思い返して、インナーチャイルド療法というものを簡易的に行ってみました。私は他人がうんざりするほどに自己肯定感が低いです。それが他人のためになると思って生きてきたのですが、そうではないということも徐々にわかってきたので、どこか歪んでいるはずだから思い直しましょう(大意)というこの方法をやってみました。結果はだいたいわかっていたのですが、それでも確信を持っては消し、持っては消し、と誤魔化し続けていたので、直視することは難しいことでした。そのぼんやりとした空間には、どの場面においても孤独な自分が集積していました。家庭でも、学校でも、親戚付き合いでも、常に一人でいたようでした。一人でいた理由の根本には、私の音声出力が遅いことが浮き上がってきました。納得する人もそうでない人もいるとは思いますが、私は本来、のんびりした人間なのです。のんびりというよりもじっくりというほうが実感としては適切なのですが、客観視すればのろまでしかないので、中間をとってのんびりとします。のんびりしているので、会話のテンポがずれます。私の頭の中には、遅くとも小学校1年生の頃には、自分の脳内の容量を超えた思考が常々あったように思います。その発生要因は会話であったり、視覚による認識であったり、さまざまです。そうしたところから、相手に適切な言葉を選択するため、相手からすれば苛々するのでしょう。あまり人と話さなくなりました。時たま言葉を返しても、それが辛辣すぎたり、理解してもらえなかったり、これまたさまざまな要因で話さなくなりました。話さないし、話しても通じないしで、余計に言葉を発さなくなりました。それは今でも変わりません。今は、相手になんとなしに合わせて会話らしきものが成立するようにはなりましたから、話すことも増えました。それでも、私は音声入力が本当にできなくて、相手が話した概要の中からキーワードを推測して、自分の想定する会話の経験則に則った言葉を発しています。そのキーワードが相手にとって適切であれば会話は成立するし、そうでなければどんどんとずれてしまいます。噛み合わなければその空間にしこりができますから、それによって関係の方向性も決まります。

 最近は、生活の速度が今まで以上に大きくなっているような気がして、今まででさえついていけなかったのだから、どうしていいのかわからなくなります。私は、一日中本を読んで、その次の日は考えて、その次の日は調べごとをして、その次の日はそれらを概念としてまとめて、文章なり絵なりの出力をしたいと思っています。しかし、そんなにゆっくりと暮らしてはいけないようで、日々締め切りだなんだと、作業の意味も考えずに時間が過ぎています。私はそこでバーストして、冬眠します。それが3か月おきにくる周期なのだと思います。私にとって意味もわからず作業をすることは、苦痛以外の何物でもありません。あらゆる物事には意味がある。一つも無駄なものなんてなくて、草木や海は生態系の礎となり、そこから人間の営みが生まれる。さらに還元すれば原子が存在している。そういった部分にまで思考を巡らせると、人間が本来宿している能力なんてこれっぽっちもなくて、速度も狭い能力範囲に付随したものしかない。思考はそれでも素晴らしい発展を促し、そこで得たものは得るはずのない環境でした。それがあるから今私がこうして文章を書けているのだということも理解しているし、人間の醜い部分があることでさまざまな文化が生まれたことも十分承知しているつもりです。それでも、この速度は、私にとっては苦しいのです。

 やりたいことをしなさい、と言われます。私のやりたいことは、じっくりと思考を巡らすことです。それには現状は刺激があまりにも多すぎます。考える間もなく、それの意味を腑に落とすこともなく、消費しきれずにこなすだけの作業を繰り返しています。私にはその意味がわかりません。やりたいことをやるために行動するとしたら、それは肯定的な死の選択です。発展に心を奪われた人たちにとって、権力に恋い焦がれる人たちにとって、私の思考は邪魔ものでしかありません。権利と称してそれ以上の物事を欲して、それは結果として首を絞めているようにしか見えません。そんなものは欲しくないのです。ただ、静かに暮らしたい。歩く意味を考えて、目を動かすシステムに心を奪われて、光の集積として視界に入ってくるものを愛でたいのです。そばに、未知なるものが多々あるのに、それらを無視して突き進む醜さ。そこまでして、何を得たいというのでしょうか。それで得たものは、幸福をもたらすのでしょうか。そうだと言うのならば、見せてほしい、それを。