人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

禅の美

 昔は華美なものを比較的好んでいたような気がします。今は、ごくごく単純なもの、質素なものを好むようになりました。その変遷は、潮流に沿ったものなのか、それとも内在的な変化なのかはよくわかりません。

 飾り立てていたのは、自分の中身がなかったからだと思います。中身がないから、外見や知識で取り繕っていたのですが、そこには自分がいたのかと問われれば、いなかったのだと思います。人前に出ているのは華やかな人、賑やかな人、すなわち蓄積的な観念がそこにあって、そういった部分に惹かれて人が集まるのだと思っていました。しかし、そういった集まりは至極流動的で、関係は脆いものであるといった側面もありました。それでも、その一時的な名声だけでも、私は我がものにしたいと恋い焦がれることがありました。浅ましいといえば浅ましいのですが、適切な感情の処理の仕方もわからなかったので(今でもわかりませんが)、うらやましく思っていました。

 外面にしろ内面にしろ、やたらめったら蓄積と崩壊を繰り返してきましたが、次第に削る作業に重点を置くようになりました。蓄積は視野を広げる上で重要な足がかりとなったのですが、広げるだけ広げてしまったので、収集がつかなくなって、広がりゆえに無法地帯になりました。多くの人が介入してきて、私の軸を揺らすのですが、自分のことは結局自分が納得することでないと適応できないので、揺らされても戻るところは自分が最初に見出した位置だったりすることが多いのです。その揺らす作業は、非常につらいものがあるのですが、それでもその一周して元の位置に戻るということが重要となるのです。それというのは、位置は同じでも、それを捉える私自身の認識が変わっているから。拡散と収束によって物事は進むと思うのですが、拡散だけを重視していたので、0(崩壊)か100(蓄積)しかなかったのです。それをその間に収束させるための削るという作業が、今は必要だと思っています。多いからいいとか少ないから悪いとか、数の問題ではなくて、その厚みを考えるというか。軸は複数持つと収拾がつかないので、私には一つでいいかなと思っています。まだまだ軸が多いので減らしたいのですが、結局その軸というのは自分が納得できるかできないかを細分化しているだけ。ないし、好きか嫌いか。他人に説明するためだけに複雑な理由付けをしている。その基準はおそらくあるのでしょうが、まだ経験則が蓄積できてはいないので、一つ一つ説明している状態。軸というのは、おそらくその人自身の本質に関わる部分なので、自分の軸を見出すのはもちろん、他人の軸にも興味があります。自分が好きだな、と感じる人は、きっとその軸の1次元的な間隔が近いのだろうと思います。複雑なように見えて、至極単純なことが多いような気がします。

 削り落として残ったものを直視することは恐怖を感じるのですが、それでも生きているうちに見つけられたらいいなと思います。それが生きることなのかな、と。