人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

あなたには見えない私の

 見えないから他の人からは気付かれません。人はその人自身に見えるもの、わかるもので物事を判断しようとして、それに当てはまらないものは異物と切り捨てます。そうして切り捨てたものに対しては、承認なんてしません。認知すらしないかもしれません。私は私として生きてきたとしたら、今ここにはいなかったと思います。私でない何かとして演じてきたことで、存在を許されてきたのだと思います。

 存在を許すという言葉は、哲学的に考えればおそらく成立しません。哲学の起源を考慮すれば神の存在を切り離すことは難しい。存在を許すか否かという問いは、おそらく社会が作り出した関係性の上に成り立つのだと思います。人は承認されて生きるという前提が私の中にあって、それというのは経験則に基づいています。義務教育では、私が過ごしていた頃には過度の集団行動が見受けられました(今は根本は同じでも形態が変わって大人から見れば潜在化しているような気がします)。いじめも当たり前のように横行していました。そういった環境において、孤立(自立)することは、非常に難しい。他に居場所を見出しているか、物に居場所を見出しているか、そうでもしないと不可能です。その場合、承認欲求のために、個を排して同調するのは至極当たり前のことなのです。「離れればいい」と容易く言う人がいますが、その人は痛い目に合っていないのか、外部に居場所を見出せた幸運な人か、何にせよ考える気がないのだなといつも思っています。しかし、幼少期や思春期なんて、違和感に対する感覚は非常に敏感ですから、個を排しても排しきれないその部分に対して、異物とレッテルを貼るのです。貼られたら、時が過ぎるのをひたすら待つしかない。終わりがないかもしれないけれど、その無慈悲な現実を受け入れたくはないから待つしかない。受け入れたならば、その先には死しかない。何をそんな大袈裟な、と思うかもしれませんが、私は思春期において個を排すことに専念していた頃は、これくらいの心境でした。排しきれないと吹っ切れても、先述のように離れることをしてみても、どうせ承認されないのだから消えてしまいたいと常に思っていました。

 私は、逃げ方を知りませんでした。他人の感情に振り回された場合、人は逃げるという行動をとるらしいのですが、それを知りませんでした。真摯に受け止めること、つらくても耐えうること、現状を把握して共感すること、じっと耐えて併走すること。それが当たり前だと思っていたし、そうした義務感もありました。それは、承認との等価交換であると思っていました。等価交換というよりも、最低条件だったのかもしれません。逃げる一つの方法として、いわゆる非行という場所があったのだと知りました。私は立派な道徳教育を受けてきた(皮肉です)ので、逃げてはいけない、悪いことはしてはいけない、人に迷惑をかけてはいけない、と思っていました。なので、自分が不利益を被る行動を他人にとられても、現状はこうである、だから自分が不利益を被るのは致し方ないと思っていました。私は、全部わかっていました。なぜこの人はこういう行動をするのか、その背景にあることも含めて、幼いながらも把握していました。それでも、全てを自分の承認欲求のために我慢していたような気がします。人のことはすごくよく見ているのに、自分のことは全然わかっていないよね、と非常に多くの人に言われてきましたが、本当はわかっているのです。わかっているけれど、承認のためにわかっていないふりをしているだけです。そんなことを言ってしまえばまた異物だと言われて人が離れてゆくことも目に見えていたので、バカなフリをしていました。

 承認欲求の一番手取りばやい方法は、恋愛関係だと思います。だから、性的なビジネスの需要が絶えないのだろうと思っています。愛情等も含む性欲というものは動物の本能ですからどうしようもないのですが、資本主義的な価値観がそこに介在してしまうと、それは大いに歪みます。つがいを見つけるということは、本来数字が介入する部分ではありません。もちろん自分が少女漫画に毒されているという面を考慮する必要はありますが、存在を分かち合うことが前提としてあると思うのです。性的ビジネスは、(性別に関係なく)人を道具として扱っています。買い手側は、売り手(当人)の私欲を免罪符にしますが、そもそもの売り手側(当人とその背景にいる人間)の構造についての正しい認識がありません。あったとしても、見ないフリをする。知ってしまえば都合が悪いから。人を道具として見なす人が一定数いるのだと最近その認識がついてきて、なるほどこれはイタチごっこなのだなと思いました。イタチごっこになるのならば、こちらの数を増やせばいい。そのためには現状認識を多くの人に伝えることが重要だと思います。

 もう一つ自分の過去について触れるとすれば、ビジネスでない性的関係の話。恋愛関係において、性交渉の機会などもあります。その際に、適切な知識がないのです。正しいかは別にして知識を得るとすれば、ネットにいくらでも転がっているAVでした。正しくなければ承認されないと思っているし、相手の顔を立てなければいけないと思っているから、男性のために作られたそれについて、男性の目線ではこういったものを好むのだと考えました。だから、自分がそれを望まなくとも、そうしなければならないという意識は強くありました。何にも気持ちよくないのに。全く。一切。そもそも私は自分に対するコンプレックスが尋常ではなくて、精神的な部分においては常々書いているような諸処の物事、身体的な部分においてはデブでブスであること。そういったことを毎日毎分毎秒のように考えていました。今でも考えています。以前、痴漢についての対談がネットにあって、そのときに書こうか書かまいか非常に悩んだのは、デブでブスなやつが被害者であることに対する嘲笑があるからです。私の中に男尊女卑が(良い悪い関係なく)強くあって、それというのは昔の家の在り方の思想を強く継いでいるからです。これまで法律を決めてきた人たちと同じような思想を持っていることを自認しています。思想に拘っているという意味ではなくて、その社会しかない、この枠の中で生き方を考えねばならないと思っていたのです。男尊女卑が強いので、女性は性的に搾取される側であるという認識を社会が持っているのであろうと思っていますから、何を言おうと、デブでブスな奴が被害者であるのは嘲笑に値するであろうとか、むしろ痴漢に遭ったことを喜ばないといけないのだと思っていました。だから、痴漢に遭うことは、きれいな人にとっては迷惑行為でも、私はそれによって自分を承認された、と被害者を語りながらも、喜ぶべきことなのだと思っていました。だから、電車に乗っても我慢するし、駅で後ろについて歩かれて人気がないところになって声をかけられてもニコニコ笑って我慢するし、一人暮らしのアパートの前で車に乗せられそうになってもニコニコ笑って我慢する。それからはアパートに入る前に絶対に左右を確認するし、車がいたらそのまま入らないで遠回りするようになりました。正直とても面倒です。でも、私に被害者を主張する権利はないと思っている、だって私はデブでブスだから。そういう社会だから。立場の弱いものは我慢せざるを得ないのです。マイノリティはそうしないといけない、というシステムが構築されてしまっているので、そこを変えないと居場所の不在は永遠に解消されません。

 マイノリティは見えません。見えるのは当事者と搾取しようと思う人。見ようとしないと、普通の人には見えません。気づいている気になっているだけで、全然見えていません。何かの支援が始まると、「私はそこまでの状況ではないから、その似たような状況はあるけれど、自分は支援対象ではない」と思います。それでも、よくよく話を聞いてみると、十分に支援対象であることが往々にしてあります。今日も一つそれに気づきました。支援対象でないと思うのは、おそらく私は自分で現状を把握していて、それでも承認欲求のために自ら選択している、と思っているからだ、ということもわかりました。自ら選択せざるを得ない状況が、もはやまずいのであって。

 何が自分にできるのかはわかりません。それでも、私がこうして書くことは、いつかの自分を葬ること、これからの自分に似た誰かの手立てになるのかもしれないと思ったからです。自分は、自分にできることをするしかありません。その一つが、こうして吐露することなのだと思いました。

 

追記

 痴漢について、男性から女性、女性から男性、同性間とさまざまなものがありますが、顕在化しやすいのが男性から女性に対して。顕在化しやすいですが、その一方でそれは搾取されるものであるから当たり前という認識がされがち。だから、ポスターなども(当事者が作るわけではないので)何かおかしい、結局そこでも性を売り物にしているかごとくの表現になっている、ということが生じるのだと思います。性別に関しては既存の男尊女卑(とそれを盾にした過度の女性の権利保護主張の対立も男尊女卑の促進になっていると思いますが)による社会構造の認識を考える上で出しているだけで、男性が被害者であろうと、同性間で被害者になろうと、どれも人権侵害には変わりありません。ちなみに、自分の場合は、性別のラベルを転換すれば問題が解消されるのかと思って服装を変えてみたりしましたが、あまり効果はありませんでした(その後も痴漢はありました。それよりも年齢に応じて減りました)。義務教育時の女性間の集団行動の煩わしさの解消の糸口を見出すために、ネット上のSNS初期にネナベをしていたことがあったのですが、それはそれで男女間の縺れだとか二股をかけていると罵られるだとか(結婚という制度があったので)、男性は男性で大変だと思ったのでした。糸口はそこでは見つかりませんでした。