人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

「アリとキリギリス」や「うさぎと亀」では何を提示したかったのだろうか

 人には、それぞれの速度というものがあります。それというのは可視化できるものではありません。だから、止まっているように見えてもその人の速度で進んでいたり、後ろに戻っているように見えても(道を真っ直ぐに進むだけが手段というわけではないので)その人にとってはそちらに進むことが必要なのかもしれません。進んだ先がその人にとって良かったのか否かは、その人自身にしか判断することができません。大多数の人と同じように進んで、周りから見れば羨む場所に着いたとしても、その人は何も得られなかったかもしれない。それどころか、その人にとってかけがえのないものを失ってしまったかもしれない。どんな結末が待っているかなんて誰にもわからないので、どうしようもない。諸処の先達の言葉は、それぞれがその場所で見出してきた集合知です。それらの言葉によって人生を形成できる程度には集合知だと思います。ただ、言葉を鵜呑みにして真似できるほど平易なものではないとも思います。一つ一つには、瞬間的に理解できるニュアンスが含まれていますが、本質を理解するには、かなりの時間と経験を有するのではないでしょうか。本質に触れるというのは、ある意味自分の核なり軸を揺さぶることであって、理解するとしたならば、核なり軸が変わることにもなりうるのです。そういった理解は、私にはなかなかできません。

 人は一人では生きてゆくことはできませんから、他人と関係を形成しています。可視化できる関係も、物を介在した一見わかりづらい関係もあります。その中で、生きています。人はそれぞれの経験則を持っていると思っていて、それに基づいた見解を提示してくれます。言語で提示することが適切でないという思考の下に、行動で示してくれる人もいます。はたまた、関係が未熟であるために、こちらが一方的に言動から学ぶこともあります。もちろん、文字から学ぶこともあります。その全てが、私の血となり骨となる。一人で生きることができないのは、学習を無意識下で行っていることもその一因です。生きることは難しい。いかに生きるかを思考しながら、それを具現化することに対して、の難しさ、です。答えはないし、結果を知ることができるのはおそらく肉体としての生命を閉ざす時なのだろうと思います。そういった中で、一時一時を楽しむことが果たして自分にとっての正解なのか、周りから何を言われようとも命を削りながら生きることが正解なのか。私がこれまでの経験や周りを見てきた中で、どんな生き方に憧れるかというと、目的をもって命を削ることです。その行動は他人からの評価に揺さぶられるものではなく、たとえ何の意味も為さないものであろうとも、命を削ること。生命は有限ですから、その期間においてそういった対象を見出すことがまず難しい。次に、対象と向き合うことが難しい。それが強大であり目を背けてしまうことがあって、継続することもまた難しい。ただ考えて努力する、行動する、とは桁違いの何かがそこにはあるように思えて仕方がないのです。考えて行動して名声を得る人は多くいますが、私は命を削っているか否かに目がいってしまう。人生をかけると命を削るのは違う。上手く言語化できないのですが、全然違うのです。そういったことができる人は本当に尊敬します。

 止まっている(ように見える)人は、おそらく、さまざまなものを乗り越えて一気に走り抜ける時期ではないのです。その人にとって、併走してくれる存在は大きい。併走といっても、常に一緒にいるという意味ではなくて、さまざまな人のさまざまな言動の蓄積が併走になるのです。今は難しいだろうから、と意識的か無意識的かはわかりませんが、実際に併走してくれる人もいます。人は、本質を見抜く力を身につけることが生きる上で非常に重要だと思っています。レールは存在していますが、それはそれを作ったときの大多数がその時代の状況だけを視野に入れてコンセンサスとして形成したにすぎない。そこに多様性やマイノリティは含まれない。

 生きるには、力がいるのだ。