人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

常に目を焼かれているのだ

 本当にこの人見知りをどうにかしないと支障が大きすぎるような気がしてきました。私の限度はおそらく自分を含めて4人。それ以上では無口な人形と化します。今日の場を共にしたのは耳を傾けることができる人たちだったので、こればかりは完全に自分に非があります。人の目が怖い。正しいことを言わねばならない、失敗してはならない。

 私の自己評価は常にマイナスが出発地点です。ゼロではありません。周りの存在の強大さをあるがままに受け止めてしまったときから、私はそれと釣り合うようにマイナスに振れている。自分の中でも、自分と外部の関係性においても、ホメオスタシスは常に生じています。さりとて、私の評価が高くなれども、自己評価はやっとゼロに到達するのみです。いつまで経っても正には振れない。振れたとしても、極々小さな事柄によって戻ってしまいます。その根源はどうやらグレートマザーというものにあるらしいのです。

 グレートマザーとはユングの心理学において集合的無意識の元型の一つであるそうで、母性を象徴しています。母性には二面性があり、すべてを包み込んで育てる「善い母」とすべてを呑み尽くす「恐ろしい母」のイメージがあるそうです。私は、家族の存在があまりにも強大すぎて、それが幼少期には非の打ち所がないものであり、抗う隙もなく、ただただ尊敬せざるを得ない存在でした。自分のやりたいことに否と言われれば、それは否なのである。その場合は自分が悪なのである。欲するものは常に承認であり、マイナスをゼロにするための作業。承認欲求が強いわけですから、人望が善であると考えていたため、それらを持つ家族はさらに完璧な存在であり、それに相反して私はますますマイナスへと振れてゆく。強大な外向には強大な内向で釣り合いを取るしかない。必然か偶然か、そのようにして内向性が高まったのであろうと思います。もちろん育ての親でありますから、私は外向的な社会性を身につけます。そうすることで外向性と内向性の捻れが生じる。人はこれらを共存させていますが、私の場合は両極端に振れてしまったので、共存ではなくなってしまったのかもしれません。捻れた。内観療法というものを見つけたので考えてはみるものの、ただただ素晴らしい、という印象だけが強く残っていて具体的な話が全然思い出せません。ここに何かしらの認知の歪みがあるのだろうと思います。母親との関係において、私がわかりやすすぎるのか、はたまたやはり親だからなのか、全てを見抜かれていて否定ができないことが多々あります。何かを悩んでいることであったり、何かに苛立っていることであったり。それを自分で解決しようとして上手くいかずに負の感情を抑え込めるも失敗していることであったり。だいたい機嫌の悪いときは空腹であるという自分の単純さがどうしようもないということもあるのですが。幼少期に所謂鍵っ子であったときに一人で食事をしていたことはもう喪失を埋めようがないことであって、一人でいたことも十二分に理由としてはもはや納得しているし、自分が親の立場なら同じようにしていただろうと思うので、何か恨んだりということはありません。ただ、ポカンと喪失しているだけ。後から辻褄が合わせられるものではないので、何をしてもらってもそれが埋まるわけではない。理屈ではない何か。親に比較をされていなくとも、素晴らしい兄弟がいれば外から比較されるのが常であり、そこに「私」は存在しないのです。あくまでも、誰々の妹である。それは私でありながらも私ではありません。すなわち、そういった事ごとによって、私の存在は宙に浮いている、そうして生きてきました。そこに、私の望むものは悪であるという対称的な相互作用が働いて、表現すら仕方がわからないのです。それにおいて自立とは何なのでしょうか。どうすればよかったのかなんて、未だにわからない。

 できることは、積み上げてゆくこと。失敗をすること。幻想を幻想であると認識すること。少しばかり直感を閉ざすこと、でしょうか。あまりに他人の目を伺いすぎて、今は過敏すぎます。目を閉ざして歩くくらいがちょうどいいのだろうと思います。ああ、でもそうしたら次は耳が過敏になるのだろう。