人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

本質を求むる

 考えることが多すぎて、時間が足りません。私はあまりにも無知であり、無知であるからこそ見えるものも多くあるとは思いますが、その試行錯誤はほとんどが誰かの既知に値する。ただ、その試行錯誤をしないと広がらないことが生きてきた上での全ての物事に意識的にも無意識下においても適用されていて、時間が本当に足りないなあと思います。私は動く時期と動かない時期が明瞭に分かれていて、それはおおよそ3か月単位で推移しています。気候の変動や外部環境の何らかの要因に曝される場合は変動もしますが、往々にして3か月です。物理的に身体が動くかどうかのスイッチがそれによって切り替わり、その感覚を無視すると歪みが生じます。思考はむしろ身体が動かないときに目まぐるしく働き、その方向性は水平面へと移行します。
 思考には水平面と垂直面があります。その他にも3次元的な面があるかもしれませんが、私は今のところ2次元を知覚しています。水平面は意義や感覚といったものに重きを置いていて、垂直面は数字などの結果など、常識が確立した範囲の中で上に伸びてゆくイメージです。身体が冬眠するときに水平面に移行する理由としては、存在の揺らぎが生じています。集合知の上に歪に浮遊する常識に対して、またそれを自分が思うものと異なる使われ方を目の当たりにすると、その存在は、自我を揺さぶるのです。そして、私の中で、水平面にぽつりぽつりと穴が空くので、それを修復するために思考を積み直す必要がある。それが異常なエネルギーを要するから冬眠するのかな、と思います。大多数の人は、それを対話の中で解れきる前に縫い直しているのかなと感じます。私には、その解れを解れと認識し合える人が見つからないので、一人で全てやるから人の倍エネルギーがいるのかもしれません。生きる上で、水平面と垂直面の両方向の思考が必要であって、水平面に拘りすぎるのは好ましくはないのですが、一つ壊して一つを紡ぐ、そんなやり方でどうにか生きています。ちなみに、自分の中で二元論に振り分けてみると、水平面がヨーロッパで垂直面がアメリカ。水平面は思考に余裕がある(それが上という意味でなく、のんびりしている)ので何かを主張するよりも対話や議論を重ね、垂直面は何かを強く欲してその獲得のために主張をしている。 水平面は精神的なもの、感覚(私がよく言葉にする感覚は、本質という言葉を指しているということに昨日気がつきました)を中心に据え、垂直面は物質的なもの、結果や具体的な権利を据える。そういった印象があります。
 最近はやっと対話相手に本を迎えるための知性が僅かに身についたような気がしていて、思考の対象が、他人を介在した自分ではなく、社会や環境を介在した自分になってきたような気がします。良い意味で他人に振り回されることが減ってきました。他人について考えても、その背景には自分とは異なる経験に基づいた法則があるので、理解することができません。それは他人を見捨てるのではなく、尊重するからこそ理解ができないのだろうと思って。今までは浅はかな知識で他人を既知の枠組みに無理やり当てはめており、そうしてまで理解しないといけないと思い込んでいましたが、それをする必要がないというか。全ての人は偶然の存在であるが、であるからこそ自由で平等であることが前提にある。自由を尊重せねばならないし、自分にとっての自由を自分という存在の最大効力に値する範囲内では主張してもよい、主張する権利がある、のだろうと思います。
 私が自分を生きる上で自分を最大限生きることが幸福であるとしたならば、何をするのでしょうか。行動しない人間は人間でないという人もいて恐怖でしかないのですが、私は対話を繰り返すかもしれません。今も同等のことはしていますが、それによって知を求めるような気がします。自分の無知を自覚しているからこそ、知を欲する。時間は有限なので、これからも冬眠しながら本を読もうと思います。