人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

立つ、歩く、進む

 依存体質の私ですが、以前に比べて他人への依存は大分少なくなったように思うものの、やはりまだまだその傾向は見受けられます。昔は自分に厚意であれ悪意であれ近寄ってくる人に対して、ちやほやされると舞い上がってしまいますから、期待に応えようとするその関係に依存していることが多々ありました。存在の飢餓による承認欲求が強すぎて、なおかつ自分がその時点で持つ自己表現の手段を封じられていましたから、どんどんと枯れていくのも仕方がなかったといえばそれは嘘ではありません。ここ数年は、生意気にも人を選ぶようになりました。普通の人は苦もなくやれているらしい、人によって距離感を変えるということが徐々にできるようになりました。それは良かったことなのですが、自分が好意を持つ人(=尊敬する人)に対しての依存はまだまだ拭えません。

 自分が尊敬している人について考えてみたところ、当てはまる人たちは、自己表現によって自己の存在を確立し、自立していました。表現の手段は、学術的でも芸術的でもそこは問わず、他人に振り回されずにやりたいことをやれていることが重要です。なぜそのような生き方ができるのかというと、自分の表現方法を見出しており、かつ自分がやりたいことをやっている(≠やらされている)、そして自分でその責任を負っているからではないかと思います。自分で責任を負うというのは、失敗を恐れないことでもあって、そう思えるのは人の目を気にせずに、自分がやりたいからやるということ。それは他人に期待や依存をしないからできること、なのでしょう。

 自分をそういった人たちと比較して何が足りないのかを考えてみれば、それは何を差し置いても自信です。自信がないから人の目を気にするし失敗を恐れて行動ができない。他人の期待や評価に依存し、それに迎合した世界観でしか表現ができない。それらは自分の表現したいものの何にも擦りはしないから、全く以ってつまらないもの。取るに足らないもの。それに対して自分に怒り、虚しさを抱き、絶望する。悪循環でしかないのです。幼少期の表現の抑圧が(本意ではなかったにせよ)自分の中で鎖になってしまっていて、どうしていいかわからないので自分の足で立っている感覚もないというか。選択は自分でしてきた(のであろう)から、今ここにいるのでしょうが、どこか他人事であるというか。表現したいものは他人にとって悪であるという価値観がある限りは、私の人生は私のものではないという感覚があります。そう感じていたからこそ、抑圧に刃向かう(罰されるであろう)行為である文章での自己表現は、生きた心地がするのです。私はおそらく芸術的な表現を欲しているのですが、それは悪である(と思い込んでいる)のです。しかし、音楽を聴いて、例えばエレクトロやそれに準じたロックが流れてきて、身体が動いてしまうのは悪(=おかしいこと)なのでしょうか。TPOは弁えて我慢していますが、普通は動かないものなのでしょうか。音楽からこんなにも感情が溢れているのだから、私には身体が動かない人たちがむしろ変に見えるのに。それはリズムではなく、表現であり。私の捉えるそれはおそらくコンテンポラリーダンスに近いのかもしれません。以前に軽音楽部で一度だけボーカルをやらせていただいたことがあって、とりわけ歌が上手いわけでもありませんから、上手く歌うことよりも、表現をしようと思いながら歌いました。それは、まあ好みが分かれるバンドでしたので、その表現に対する評価も分かれましたが、歌えたことには十分すぎるほどに満足したものの、この場所ではこの表現は理解されないのだなとがっかりしたのを覚えています。さて、話は戻りますが、失敗とは悪なのでしょうか。私は悪であると思い込んでいたのですが、よくよく思い返してみると、日々において人から迷惑(負担)をかけられたことはたくさんありますが、それによって人に怒ったことはないように思います(無責任であることに対してはよく怒ります)。人に対してそう思うのならば、自分も失敗を恐れるよりはやってみてから改善していけばいいのではないかと思いました。完璧などというものはあり得ませんから、何度も挑戦して切磋琢磨してゆくほうが長期的にみていいものになるような気がします。その際に、人の目は気にしない。珍しいことをすれば、悪意も同時にまとわりついてきます。それに囚われていては何もできないというか。人の目は気にしないけれど、それは人を無視するわけではなくて。人が困っていたら気に掛ければいいし、そうでないなら過保護にする必要もなくて。それは共依存からの逸脱でもあるのでしょう。

 足のない人生を過ごしてきました。自分で歩く必要がなかったから、足はいつの間にか使わなくなりました。使わないでいると、歩き方がわからなくなって、いつの間にか立つことすらできなくなるのです。表現が私の足となってくれることを願います。