人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

線引き

 肌寒い、から一転、日が暮れたら着込まないと身体が痛むようになってきました。季節柄というのもありますが、いつも以上に考えてしまうのは、昨日読んだ本の影響を強く受けてしまったからのように思います。それは、「骨、家へかえる」(三角みづ紀著)という本でした。次の木曜日にこの本を題材とした読書会があるので感想を書くのは控えようと思ったのですが、読んでからというもの思考がどんどんと深みにはまってしまっているような気がして、とりあえず一旦外部処理しないとまずいなと。読書会では同じことを言うかもしれないし、違うことを言うのかもしれません。

 抽象的すぎてどう読んでいけばいいのか上手く掴めなかったのですが、読み進めてみると、「あ、これはまずいぞ」と感じて。4人の生き方を追っていて、それが徐々に重なっていく形の内容なのですが、それぞれの抱える感情が自分の中にもあるのです。その一つ一つは世の中に吐き出せなくて、自分の中に蓄積しておくしか私には処理のしようがないというか。こうして文章を曝け出すことで、細々としたものは葬られるようになりました。しかし、まだ、選んで、隠しているものは多くあります。それは、私の中の倫理観ないし社会性ゆえであって。社会性は私の思考と感情を、口と切り離すナイフです。考えることを口に出してしまっては、人と関わることができなくなるのだろうと思うことが多々あって。文章はある種娯楽であり、文章含む芸術の類は社会に果たして必要なものかはわかりません。人文科学と同様、経済の視点からは疎まれて、それでも私が生きる上では欠かせないものなのです。芸術は不要なものであるというレールを敷かれて生きてきて、それはまた社会のどこかマジョリティにもなっていて、経済を回すことが正解であるというか。私にはそこではどうにも生き方が見出せないように思えるのです。本の中では、正しさを問うていて。正しさとは何なのでしょうか。私は、私が正しいとはまだ確信が持てていないのです。最近は人と話すようにしていますが、果たしてそれは正しいのか。人と話す中で、もちろん学ぶことは多かれど、話を聞きながらその内容と自分の思考を辿ってその整合性をとること、それを修正したり脳内で議論を始めたりすると、顔は笑っていても頭の中は暴動が起きたように荒れ果ててしまうのです。私は人よりもはるかに経験値が少ないので、それが上回っているであろう人の意見は全て真に受けてしまうのです。だから、真逆の意見を聞いたりすると、上記のようなことがあって。また、そのどれもが自分の中にあるものと合致するわけでもなくて。生きる上でロールモデルがあるとすれば、それはさぞかし幸せなことなのだろうと思います。自分には見つからない。見つけても、それは悪だと言われると、どうしていいかわからなくなる。私が正しいと思うものは正しくない、そう言われているような気がして、それならば、そんな社会に執着する理由がなくなってしまうのです。私は人よりもずっと長く夢を見続けて、いつかは自分が望むような生き方ができるのだろうとどこか信じているから、生きてはみるものの、果たしてそんな生き方ができるようになったとしたら、私は考えることを手放すことになるのではないかということが怖いのです。社会に馴染むことが上手くできなくて、それをどうにか馴染ませるように試行錯誤してはいるものの、馴染んだ、と自分が感じたときに実として馴染むことができなかったとしたら、それを知るのが恐ろしいのです。

 私はお酒が飲めません。飲めるのだけれども、その後の心身への影響が大きすぎて、飲まないようにしています。お酒を飲めば、はたまた煙草を吸えば、生きることがラクになるのでしょうか。それらを逃げ道にすることができるのでしょうか。対症療法では、慢性疾患のように長期的に自分が付き合わねばならないものに関しては何ら解決に結びつかないということを理解していますし、実質痛い目も見ています。思考というものは長期的なものの類ですから、きっと逃げ道にはできません。逃げることで、どこか感覚を麻痺させて、やるしかないかと社会に迎合していくのが常套手段なのかもしれませんが、自分にはそれができません。それよりも、そうすることで自分の感性を失うことが恐ろしくて仕方がないのです。私は、私が感じることは、正しいと思っています。それでも、私が正しいかと問われれば、わかりません。感覚を抑制してしまえば、私は誰を生きるのかがわからなくなる、そのときはもはや、敢えて「自分が」生きる必要性が見出せなくなるのです。

 きれいごとでは生きてはいけないよ、と言われます。私は、きれいごとを言っているのでしょうか。私が見ているのは汚く悍ましい世界です。その中に、きれいなものを見出しています。それがきれいごととは思いません、泥まみれの造形美を慈しんでいるだけです。きれいごとで生きているのはどちらでしょうか。きれいごとは、汚いものを美しく体裁を整えることこそまさしく、なのではないでしょうか。私は、きれいごとではなく、きれいなものを見ているだけなのに。