人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

人と人(社会)をコネクトすることがおそらく社会問題を解決することで、根本には物は介在しないのではないかということ

 自分の中である程度方向性が見えたと思っていても、何かしらの刺激を受けると考えがまた深まったり、はたまた浅すぎたことに気づいて立て直したり。その機会というものは、人との出会いによってもたらされることがやはり多いです。自分の見聞だけではどうにも視野が狭く、至らないところに関して人から学んでいるように思います。

 さて、以前から考え続けている自分にできることに関してです。最近思うのは、無理に新しいことを捻じ曲げて生み出すよりも、自然にできることを自分なりに考えながらやるのがいいのではないか、ということ。自然にできることは自分の(生まれ持った、もしくは後天的な)能力でもあるので、それを用いることは自分の負担も少なくて済むので、手を出しやすいなと思いました。私にできることは何かというと、おそらく話を聞くこと、それに対して何かしらの策を見出すことだと考えています。昔からそうなのですが、リーダーとして先頭に立つことよりも、後ろから支えるほうが向いています。部活動でプレイヤーを辞めて部活動も辞める、のではなく、同じ場所でマネージャーを選択したのも、自分にはそのほうが力が発揮できると(そのときは挫折感しかなくとも無意識に)感じていたから。目立たないので華やかさはないし、評価もほとんどされません。リーダーこそが必要で、リーダー足れと思って自分なりにやってはきましたが、それですんなりいっていないのだから、きっとそういうことなのだろうなと。自分に(なんら負担なく)やれることで人から感謝されるのは、以前は”こんなので相手が満たされるのか?”と疑っていましたが、どうやら欲してくれる人はいるようで、だったらできないことを無理やりやって消耗するよりも、できることをやっていったほうがいいように思えたのです。

 具体的に何をと言われると、相手の(本当に)やりたいことを引き出せないかなと思っています。手段は話すことで。自分を振り返ってみると、悩みや課題が解決しても、その一瞬一瞬はラクになるのですが、のちにまた気分が晴れなくなることがあります。それを考えてみると、悩みや課題は与えられたものや課されたものであって、自分がやりたいことではないなと。何をやっていると自分が元気でいられるかなと考えてみると、自分が能動的に選択したことをやっているとき。私の場合は、本を読んだり、絵を描いたり、外に出かけたり、話を深めたりするのもそうかもしれません。これらは自分が主体となってやっていることだから楽しい。面倒なことや嫌なことがあっても、次の日にこういう時間があると朝には元気になっているというか。私は元々は基本的に朝になったら元気になるので、近年は本当に”異常”だったのだなあと今思いました。最近は元々の状態に戻りつつあります、寛解といった感じです。私はそういった経験があるのですが、他にもそういう人がある程度いるのではないかなと思いました。だったら、目先の課題の解決(も大事ですが)ではなく、やりたいことにフォーカスしてみたらどうなのかなと思って。やりたいことを明確化して、実行のために何が必要かを洗い出して、人脈が必要ならいろいろと辿って、アクションを起こす。簡単に言うと、成功体験を得ることなのかな、少し違うかもしれません。イベントを起こすことや遊ぶこととはおそらくずれるとは思います、やりたいことが遊ぶことなら客観的には同じに見えるとは思いますが。

 栄養(健康)相談もやりたいこととして掲げてきたのですが、それも必要ならいつでもやりますが、想定していたものは、生活の不自由だったり感情の違和感や理不尽さをそのままの状態として受け止めていたので、救済措置にしか過ぎないなあと思ったのです。振り返ってみて自分自身が一時凌ぎのことに(長期的にみれば)救われていないのに、人にそれをやってもなあと。そもそも、栄養の問題は表在化するところは食事内容や環境が因子となりますが、内在的には精神的な問題が関与しています。推測にすぎませんが、幼少期に虐待された子は食環境のDVによる表面的な栄養不良とともに、内面的な神経を介した消化吸収不良に陥ることが考えられます。表面的な部分に対しては、食事の摂取によってある程度改善はするでしょうが、虐待を受けていない子と比較すれば悪化状態の維持(消化吸収不良もしくは反動としての摂食障害ないし過食傾向≒慢性的精神的な飢餓≒愛情喪失)がみられるのではないかと考えています。そのことからも、精神面の存在意義を飽和状態にいかに近づけてゆくかが大切なのではないかと考えました。私は基本的に自分を助けたいので同世代や下の世代を対象として考えていますが、社会的包摂を視野に入れるのならば、上の世代にも同様のアウトリーチが必要です。というよりも、世代はあまり関係なく、足りない人には必要。何故ならば、連鎖が生じるからです。代表的な連鎖は貧困ですが、精神的飢餓が結局のところあらゆる課題の根本にあるように感じていて、その連鎖を私は問題視しています。だから、世代関係なく、やらなくてはならないだろうと思います。また、そうでない限り、連鎖が生まれ続けるでしょう。

 私の課題は、どうやって人と出会うか。まずは、私に会ってくれる人の話を聞くときにそういったことをやってみようと思っていますが、それを続けているだけでは広がらないような気がするので、広げ方を考える必要がありそうです。私は最初の頃に「伝える」ことが生業だと書いたように思うのですが、伝えるだけでは一方的で、投げつけているにすぎないのだなあと。伝えることもするけれど、相手のことを知って背中を押していくことのほうが、私には向いているような気がします。教育よりも支援のほうが、泥くさくて、それでも地に足がついている(最前線で頑張っている人は尊敬しているのですが、侮辱発言に感じたら申し訳ないです。それでもこれが実際に自分が常に受ける印象です)。私は汚れないように怪我しないように過保護に育てられてきましたが、向いているのは泥まみれになって汗を流すことなのだろうなと。そう感じたのは、自分が痛い目をみたから。そのときから、地に足をつけて考える必要があったのだろうなと思います。