人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

愛情喪失の因果

 昨日に引き続き、「永山則夫 封印された鑑定記録」(堀川惠子著)を読みました。ページ数の多さもさながら、中身があまりにも濃いのでメモを取りながら読んでいたらとんでもなく時間がかかってしまいました。昨日の段階である程度の中身の予想は立てていましたが、それを軽々と超えていました。自分のメモに補足する形で書いていこうと思います。

 本の内容としては、永山さんの精神鑑定の内容(録音テープの書き起こしとカルテ)を主に、それにまつわる人々の背景や証言を挟みながら話が進みます。精神鑑定は一度行われていたのですが、永山さんが小説を出版することになり、文章から醸し出すその知性への感嘆により支援団が組まれ、鑑定を再度行うことになりました。それを依頼されたのが石川義博さん(精神科医)でした。彼はエリート中のエリートで、土居健郎さんという日本の精神医学分野の権威の下で第1期ゼミ生として学んでいました。土居さんの言葉は、私の中にある揺らぎをも射抜くものでした。

「医学は本来、臨床から出発し、臨床こそ医学の目的である。それゆえ臨床は、それ自体が研究となりうるし、またなるべきであり、実験的精神によって行われなくてはならない」

「治療関係の中で得られる所見は極めて人間的であり、一見もっぱら主観的な事柄から成り立っている。一方では治療者の主観があり、他方には治療を求める患者の主観があって、この両者が関係して起きる事柄をなるべく客観的に記載したものが治療関係における所見である。その意味で治療関係についての所見は自然科学的事実とは異なるものの、客観性に関する限り何らの遜色はない」

私も、基礎と臨床においてはやはり基礎こそが学問であるという風潮の中にいた(いる)ので、 そう考えて専門を変えてきましたが、基礎研究で学ぶことは確かに多くてそこで考えがしっかりと肉付けされたように思います。しかし、それを活用するにはやはり臨床が必要だと感じていて。それというのも、(私の分野の)基礎研究で捉えるものはあくまで人体であって、人間ではないと思うところがあるのです。一時は純医学系の研究室にお邪魔していたのでそれはまさしく人体であり人間ではなかったのですが、食の大切さを広めたい我が学部においては少しずれているように思うところがあり。人は生まれながらにして社会に放り出されるので、生きながらにして臨床を学んでいるようなものであり、すなわち臨床から始まるのではないか、と思うのです。疑問は臨床という現場から発生するというか。そこから学問として基礎に立ち返り、臨床に返すイメージが最近強くなってきていたので、この言葉で視界が開けたように感じました。

 石川さんの行う精神鑑定は、ただひたすらに話を聞くというものでした。そうすることによって、相手の暴動が沈静化し、自己開示を徐々に行うようになる。石川さんが以前診ていた少女もまた、暴動が激しく手をつけられなかったそうですが、話を聞くことによって自己開示を始めました。一度、石川さんが面接時間に遅れたことがあって、その際に少女は裏切りを強く感じ、再度暴れたのですが、面談時間の不足も省みて日記を活用したところ、暴動という「行動化」から日記の文章という「言語化」に切り替わっていきました。自分の思いを自分の言葉で表現することの治癒的効果、と表現されていましたが、それに関しては私のこれがまさしくそうです。私は文章にすることで整理すると落ち着くのですが、それもまた一種の治癒的効果なのだろうと思います。

「永山が犯した罪について”あなたはこうだったんでしょう”とか”だから犯罪やったんでしょう”と言ったって本人はピンとこないですよね。彼自身が納得するためには、自分の言葉で、自分の体験したこと、心にうつったこと、目にうつったことを整理していかないといけないと思って。」

 取り上げられていたものの中で、R・A・スピッツの「母ー子関係の成りたち」という 

 本に興味を持ちました。その一文を引用します。

母親またはその代理者の愛情喪失による対象関係形成の失敗は人格のすべてにわたる全体的な発達を停滞させる。

子どもは、愛情喪失の後に残されている攻撃性を、自分自身に向けて死に至るか、自分を精神薄弱に追い込むか、あるいは憎悪に満ちた青年となり、終局においては犯罪を起こすかのいずれかの道を歩むことになる。

発達の停滞は最近よく取り上げられています。動物実験でも、幼児期のエピジェネティクスの影響は有意に悪化することが認められています。 虐待を受けた子どもは意思表示をしにくくなるというのも、主たる症状としてそういった広報等に記載されるようになりました。どういった条件下にあれば愛情喪失となるのか、トリガーとなるものは何か、そういった部分は個人差もあるでしょうから必ずしも全員が全員とも上記の道を歩むかはわかりませんが、その傾向はあるように思います。

 永山さんの精神鑑定が行われていく中で、個人的に非常に既視感のある文章があったので、それを、途切れ途切れではありますが。

「「あれっ」て思って、何て言うか、ガーンッてぶん殴られたような気がしたよ。それからね、もう、駄目になっちゃったんだよね…ガクッと来たわけ。それで俺、やる気なくして、(中略)、大分気も遣ってくれたらしいけど、俺の方としてはね、Bさんのこと、根に持ってたから、大分、憎んだよ。」

「憎んでたのと同時にね、言ったら「辞めろ」っていうか、「辞めさせられる」って思ってたんだ。(中略)それで、俺、もう自分から辞めるかなって。」

切り捨てられるか、その前に自分が切るかー。

 

みんなからの一言に裏があるように感じて「ポツンとなってしまう」

「永山は、人を信じることがまったく出来ていない。相手の行動をすべて被害的に受け止め、たとえ良いことをされても悪い方向へと考えてしまう、典型的な「被害念慮」のパターンである。最初は必死に働く。それは不安をかき消すためであり、劣等感の裏返しの行動だ。そして心身ともに疲れ果て、それ以上そこにいられないという切羽詰まった極限状態に自分が置かれているかのように思い込み、ついには他人から見ればささいなことをきっかけに、すべて放棄して逃げ出す。

もうこれ、以前の私の思考回路と全く同じなんです。上記は、(永山さんが過去に万引きをしたことを、学校関係者が職場の上司に話していて)職場で万引きの話題になったときに「自分はリンゴ畑からかっぱらったくらいで…」と取り繕おうとしたところに、本当は学校でもっとひどいことをしていたんだろう、と言われたときの心情を告白しています。それまでは、努力を積み重ね、しっかりと評価もされていたのですが、その一言で職場から逃げ出してしまうのです。私も全く同じで、どれだけ評価をされていても、一つ、ほんの小さな一つのことがきっかけで全てをひっくり返してしまう。言語化すれば確かにこうだ、と腑に落ちました。他人と比較することでの劣等感、評価を得るほどの努力ですからやはり疲れ果て、自分で自分を極限状態に追い込み、張り詰めたものが壊れれば、放棄して逃げ出す。私の場合は、やはり「乾き」ですね。飢えではなく。渇望という印象です。食べるほどの人間的な思考能力は残っていないというか。

 この本は、とても素晴らしいです。永山さんも、石川さんも、土居さんも、著者も、皆全力で目の前の物事に対峙しているのが強く伝わってきました。そうでなければ、こんな精密な記録はできないし残らない。これこそが仕事なのだと思わずにはいられませんでした。貧困がただ単に犯罪を呼び起こしたというそんな安易なものではない、複雑で繊細な、条件が(たまたま)揃って起きた。それは本人にとっては必然だった。だからこそ、永山さんは”計画的な犯行”であることに拘った。その因果を世に知らせるため。本当に頭の良い人だと思います、永山さんの知性がなければ石川鑑定が行われることはなかった。罪は罪であり、遺族の方の感情はまた別の問題としてそちらも非常に重要なのですが、愛情喪失の歪みの認知はこの本によって少なくとも私は再確認をすることができました。