人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

善悪紙一重

 以前、松本サリン事件の被害者である河野義行さんの講演記事を読みました。そのときから事件というものに強い関心を抱いています。それまではとにかく法律というものが苦手で、それというのは以前書いたように社会(の担当教師)嫌いからきているものではあるのですが、血筋なのか何なのか、社会科学というものへの関心には抗えないのかもしれません。事件というものはニュースとして見れば突発的に起きるように感じるものですが、その動機はどうにも突発的ではなく深く根付いたところにあるような気がするのです。犯人の動機にも、(河野さんのように)容疑をかけられるにしても、被害者の側よりも容疑者の側がどうにも興味深い。河野さんの記事を読んで、条件さえ揃えば誰でも容疑者に仕立て上げることができること、法律を用いた弁護士と警察のせめぎ合い、そこに便乗するメディア、それを炎上させる社会情勢、それら全てに関心を持ちました。そのうち裁判の傍聴に行きたいとか言い出しそうだ。すでにちょっと行きたい気持ちはあるけれど。

 2冊本を読みました。「神様の背中〜貧困の中の子どもたち〜」と「まなざしの地獄」という本で、前者は、小学校教師の視点で貧困家庭の子どもたちの存在を知る、知るというのは彼女自身がDVを受けてからがまさしく「知る」という状態だったとは思いますが、という話でした。漫画なので感情移入もしやすく、理解しやすいかつ密度の濃い読み応えのある本です。後者は、永山則夫さんという1968〜69年に連続ピストル射殺事件を起こした刑死者の話でした。私はこの事件を知りませんから、ただただこの本に書いてあることだけを読んだだけでの感想にはなりますが、なんというか、人間誰しも犯罪を冒す素因があるように思うのです。それというのは社会構造が歪んでいるように思えるから。共通の敵を作ればなんとやら、誰かに何かのレッテルを貼って自分を守るのがもはや生きる術の世の中ですから、そのターゲットにされたほうは何かに逃げてゆくしかなくて。その逃げ方はさまざまですが、迎合するにしろ反抗するにしろ、それが真に快かと言えば(正常な状態で)そうだと言う人はいないでしょう。この2冊の共通点は貧困ですが、レッテルの種類は残酷にも多様であります。私のレッテルは「異質」というものが多かったです。思い返せばなんとも粗雑な言い分なのですが、子どもの頃には言い返す方法も無視する勇気もありませんでしたから、無邪気な悪意をひたすら受け止めるしかありませんでした。それは意識的か無意識かはわからねど、やはり蓄積してしまうのです。だから、永山さんの話を読んでいて、私は同じ状況下に置かれたら彼のように事件を起こしていても何ら不思議ではないと思ってしまったのです。それを聞いたとして皆さんは私を卑下するのでしょうか。罵倒するのでしょうか。私は、永山さんの冒した犯罪が善であるとは全く思わないし悪でないとも思いません。しかし、結果ではなくそこに至る過程を知ると、彼は一人の被害者であると思いました。貧困家庭の連鎖の結果の一つとして生じるのは犯罪ないしグレーゾーンという道に進むことがありますが、それを悪だ悪だと責めるのは簡単であり、守られた場所から言うので怖くないでしょうが、それは私からすれば犯罪と何ら変わらないように思えるのです。マイノリティがマジョリティになった途端に傲慢になるというのは侭聞く話ではありますが、またその権利の解釈も難しいので、そこからも法律への関心は膨らむところであります。

 私はやはり感情よりも考え方の起因に強い関心があるようで、感情の起因は考え方、考え方の起因はその人の経験ないし環境にあると考えています。それをもっと知りたい。犯罪を冒す人について「存在の飢え」という言葉が書かれていましたが、私の感覚では「乾き」でした。どちらも意味するものは同じで、私は犯罪と称されることはされどもしていないはずなので「乾き」程度なのかもしれませんが。刑法や民法の解釈が気になるし、今刑事事件で検索かけてみたら銀座の女王バラバラ殺人事件とか出てきて非常に興味深いですね。事件もそうですが、それが起きた時代の背景、社会構造、風潮、法律の解釈、被疑者の環境ないし背景など、いろいろと気になるものが尽きません。