人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

誰かに伝えたいのだろうけれど伝えるときがないので

 おそらく彼がこの記事を目にすることはないだろうけれど、それでもとりあえず書いておきます。

 「コミュ障 動物性を失った人類 正しく理解し能力を引き出す」(正高信男著)という本を読みました。

本当はコミュ障の人は周囲に引きずられてはいけないのだ。コミュ障を極めることによってのみ、コミュ障の人にとっての幸福は得られるのかもしれない。

 はたしてこの本がターゲットとする問題行動を引き起こす本人が自覚のないときにこの本を手にするかといったら否だと思いますが、周囲の人が理解するためには一役買うのかもしれません。コミュ障という言葉はいまや定義が広すぎるので、読んでがっかりする人もいるかもしれませんが、一見コミュ障とみなされないような人たちも、著者の中の定義を当てはめればそうなるし、むしろみなされている人たちがそこから外れることもあり得る本だと思いました。例として挙げていたSTAP細胞の話でも、(メディアのやったことの善悪はまた別の問題ですがそこから見えてきた過去のエピソードを知ると)小保方さんはたしかにコミュ障の人であると感じたし、それゆえに頑なに主張し続けたのもとても納得がいくのです。具体的なデータとして、人間関係に問題がある生徒とそうでない生徒を比較したものが多々乗せられていて、問題がある生徒は怒りの表情の認識がそうでない生徒と比較して劣るというものが著者の主張の根源にあります。有意差も星がついたようです。怒り顔と笑い顔の情報処理回路は異なっていて、怒りでは皮質下回路(上丘→視床扁桃体)というものを用い、笑いでは皮質回路(外側膝状体→視覚野→扁桃体)というものを用いているそうです。怒りは他の動物にも宿る回路ですが、笑いは人間特有であると。そういったデータ等々を展開して、ひきこもりにも触れつつ、じゃあどうするかといったら「書く」技術を高めよ、ということでした。アウトラインだけをざっと書きましたが、自分で読んだほうがちゃんと理解できると思います。

 

 読みながら書く手が止まらなくなったので、それをこちらにも記載しておこうと思います。メモはいつか捨ててしまうので。内容はばらばらです。

 

 本を常に求める人はさまざまだが、その一例としては、純粋に知識欲のためであったり何かを知るために読むという人や、本に助けを求める人がいる。自分の入り口は前者で、今は後者だ。周囲との会話が成り立たなくなると、それでもそれを求めて本にいくというか。だから、日々の生活がつまらなかったり死にたいと思ったら、図書館か本屋に足を運んでみてほしい。すぐには見つからないかもしれないが、長い歴史の中で多様な言葉が散在しているそこには、きっとあなたの味方がどこかにいるんだ。

 自分はおそらく社会性の高いコミュ障だ。だから自分が嫌だと思って道から外れても、誰かがいつも助けてくれる。遠回りをしても、それが長い目で見れば無駄になったことはない。傍から見ると、ものすごいクズか、やりたいことばかりやっている(無責任な)人に見えるかもしれないけれど、それは目立つことをしたときばかりが人の目に留まるからだ。本当に華やかな生活ばかりの人は実際ほとんどいなくて、そういう人たちですら特有の悩みがあるのだ。だから人と比べるのは本当に自分を消耗するにすぎないことであって。それで命を絶つならば、そこから逃げればいい。ただし、逃げるにも覚悟が必要だ。だからたくさんの考え方を知って、それを自信につなげることもまた必要で。悩めばいい、今はまだ悩むときなんだろうから。ただ、一人じゃないということだけ、気づいて、心のどこかに留めていてほしい。一人で生きている人なんていない。一人で生きているとしたら、水も電気も、インフラすら使えないのだ。一人じゃない。それだけ覚えておいて。

(上記の本でポップを作るなら、これを手紙に認めてポップに封筒を貼り付けておこうと思ったのですが、悩んでいる最中に上記の本を読んでもまだ客観視できないだろうなと思ったので自分の中で勝手に没になりました。読み返してみればきれいごとだなあとも思います。)

 

自分が長いこと苦しんできたこと、たとえばコミュ障だったり、相互理解不能だったり、理不尽を社会性として隠すことだったり、たくさんあるけれど、それらが学術的データを基に断片的に表出してきて、それがありがたい一方で悲しい気持ちになる。今もまだ確定的な理解が周知となったわけではないけれど、新しい社会問題も時代の変遷とともに出てきたけれど、子供のときに苦しんだ自分は一生そのままなのだと思う。どれだけデータが出てきても、どれだけ新しいルールが作られても、それで私が救われるわけではない。なおかつ、「もう大人なんだから」と言われ、途方にくれる。大人という年齢になったら何が何でも自分を犠牲にしてでも下の世代を見守っていかないといけないのかな。自分と同じ苦しみを味わってほしいとは全く思わないし、そうなりつつある子は多々見かけるから、同類相憐れむというか臭いがするというか、そんなところで相手(昔の自分)がはねのけないような言葉を選んで声をかけたりはするけれど、(昔の自分は)厄介なもので、自分をわかってくれる人なんて誰もいないのだと世界を完結させて、どう生きてゆくか、はたまたいつ命を絶とうかとしか考えられなかったから、命を絶とうと考えていないときでも、他人の言葉は聞きはすれど私のことは所詮他人事に過ぎないのだから、その重みは全く感じられないし私の足を動かす糧になんて到底ならないのだ。わかったことは自分で気づくということでしかなくて、その道筋には自分を必要としてくれる他人の存在、かつ、自分の中の基準と一致する尺度の持ち主でないとそれが成立しない。すなわち、自分が尊敬の眼差しで見つめる他人に自分を認めてもらえないのならば、自分の価値が見出せないということである。それを成すためには自分で足を動かさねばならなくて、なおかつ自分の考え方がある種突き抜けたものでなくてはならない。突き抜けるというのもまた難しく、自分の常識が世間一般のそれと一致しない場合はまた苦労も多く。それでもやり続けていれば、なぜか世間が後続してくることは多々あって。ならば自分が先端をゆくのだと覚悟をすればいいものの、そこまでの度胸もなく。はたしてどこへゆくのやら。

 

 人間関係を複数形成しておくと、とても楽なのだ。自分が欲するものをすぐに提示してくれたり、予期しない面白いものを紹介してもらえたり、一人でやるよりもはるかに速く、簡単に世界が広がってゆく。閉じこもるのは簡単だけど寂しくて、自分が見えなくなって、周りももちろん見えないから、どんどん落ちぶれてゆく。一人というのはネットも何もかも絶つという意味で。今は情報社会だ。情報を知らずに孤高と思っていても、世界には自分に似た人が何百万人といるものだ。がっかりした。絶望した。けれど、それが事実だ。

 

 特殊な例を複数ネット上に散りばめておけば、それはいずれ特殊ではなくある種の「普通」になる。中二病高二病・大二病を全うしたいのならば、こんな例は見ないほうがいいだろうが、そうでなく悩んでしまっているのならばひとつの例として見てほしいのだ。たとえ周りに自分と似たような考えを持つ人がいなくとも、あなたのただ一つの側面と私のどこかしらが似通っているかもしれない。そうだとしたら使ってほしいのだ、好きな形で。真似するでも言い訳に使うでも何でもいいから、使ってほしい。

 

 集団の醸し出す同調圧力に耐えられない。人は絶えず変わり続ける生物なのに、常に何か同じ目的に向かって活動するということが自分にははたはた向いていないようだ。健全な社会活動にしても、大多数の人にとっては一見生産性のないバンド活動だったりこうして文章を書くことにしても、続けることが本当に楽しくて(ないしやりたくて)やっているのか、ある種の義務化になっているのかというところに潜む負の感情におそらく過敏だから。なので、比較的やりたくてやっているのであろう活動には惹かれるけれど、どれだけ外面がよくても、そうでないものには惹かれない。