人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

引き出して叩きつける、目に焼き付ける

 感覚の鮮度が1分1秒で落ちてゆくような気がして、キーボードを叩く手が焦りで震えるのです。そんな表現に出会った日でした。

 哲学カフェという場所に残り時間も僅かながらに飛び入りして、全く論理展開も規則も何もわからないまま感想を言い残し、それが案の定誤解されて伝わったものの訂正および議論する時間もなく飛び出て次の場所へと向かってしまいました。カフェの雰囲気はとても好みだったので、改めてゆっくりと伺いつつ、次回のテーマを楽しみに待ちたいと思います。

 次に向かったのはアーティストの方のお話を聞ける場で、参加者も非常にクリエイティブなお仕事をされている方が多く、参加者同士で話す時間を設けていただいていたのですが、人見知りを発揮して自分から話しかけることができませんでした。クリエイティブの分野もまた多様で、興味深いことや全く想像がつかないことをされている方も多々おりました。また次回お会いできたら今度は頑張って話しかけたい。人見知りをするわりには海外の方とは大声で笑い飛ばすという。しかも英語が全然理解できずに相手のテンションがただひたすら鏡となっていた。自分が他者の鏡となることを無意識にしてしまうことがあるのですが、そうしたときの自分の存在はどこにあるのだろうと考えることがあります。道化となるのならピエロである自分がいますが、鏡は投影です。コミュニケーションの円滑化にしてはテンションが高すぎてどうにも違うように思える。それとも自己を解放することが目的だったりするのだろうか。海外の方は冗談しか言わない方と真剣に私にアドバイスをくれる方となんだか両極端で、私は本当はここまでくだらないことを話して、ここまで大声で笑って、ここまで全力で遊びたいのだろうな、と感じました。静寂の美足れと考えて意識はそこにあれど本心は違うところにある、そんな私がひっそりと覗いて現れたような、そんな一瞬でした。アーティストの方のライブペイントは息を呑むものがありました。この地では文化の影響もありパフォオーミングアートが発達しているらしいのですが、そのクリエイターの一人である佐野翔さんのパフォーミングアートを拝見しました。私は事前にウェブ上で作品を拝見しただけで、それ自体は初めて目にしたのですが、なんだ、あれは。まさしく全身で描いているのですが、私には目だけで描いているように見えました。瞳孔を開いて、信号を神経を介して伝達してゆくという本来見えやしない、意識もしない系を、考えざるを得ない、そんなアート。端から見ている分にはそれで、いざ自分を描いてもらおうとすれば、果たしてそれは呼吸をも奪っていって。呼吸の仕方を意識すると従来の間隔とずれが生じることがあるのですが、佐野さんの瞳孔が開くから、こちらは吸い込まれないように、抜き取られないように、それでも自分を伝えようとして、隠そうとして、輪郭を捉えようとすると、呼吸がどんどんできなくなってゆく。本来見つめるということ自体が多大な負荷がかかる動作であり、それに加えて呼吸が乱れ、胃を締め付けて、横隔膜を必死で収縮させて酸素を探す。描き上がった作品には、表面的な自分の醜さと、内在する自分の抱え込み、それが共存しつつも救いを求める自分がそこには確かにいて。隠したいのか拒絶によって自我を守りたいのか、俯きながら睨みつけるような私が、背負うものは希望であったり。一方で守るべきものであり責任でもあるものを身に纏い、じっと我慢しているような。見ていると本当に恐ろしいのです。何も自分のことは話していないのに、確かにそこに切り取られているから。表情があるのです。見れば見る程、子どもと大人の狭間に囚われている自分がいる。見てはいけないのだ。

 狂気の共鳴というものがあると思っていて、そんなものを感じました。私は似顔絵を描かれることは恐怖でしかなくて、それは醜形恐怖みたいなものでもあり。この作品は醜形恐怖を通り越して、内在との対峙なのです。見てはいけない、けれど見なければならない。置いていかれた自分を救わないといけないのです。素晴らしいアーティストだと思います。私も手書きに回帰したくなりました。絵では未だに形にできないけれど、文字という絵なら表現することができる。