人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

死ぬことよりも生きることのほうが少しだけ魅力的に見えてきたということ

 ブログを書き始めたきっかけは何かとの質問を頂きましたので、それに関して思いつくことを書き出してみます。特定に繋がる個人情報が山ほど出てきそうなので内密に返事をしようと思ったのですが、長すぎて読みにくいと思ったので結局こちらで記すことにしました。敬語が堅苦しいと思われますが、誰の目に留まるかわからないので一先ず形だけでも。

 

 ブログをいざ書こう(公開しよう)と思った直接的な要因は、以前にも少し書いたのですが、やはりDIR EN GREYの京さんの姿勢に影響を受けたことでしょうか。特に誰かしらに書くことを勧められたわけではありません。元々文章を書くことは全く苦にならない性分でして、何か思いついた際にはメモを取って文章に認めることも多くありました。現在のような、社会問題のようにわりとタブー視されるものに言及することもあれば、空はどうして青いのか(揶揄です)のような、ただただ気になることを書くこともありました。DIR EN GREYを聴き始めたのはわりと最近で、昨年の12月頃でしょうか。それ以前は、デビュー当時から認識はしていて(CD3枚同時発売などの影響で当初話題になっていました)、代表作である朔のPVを中学生の頃に見たと思うのですが、そのときはデスボイスが音楽と認識できなくて、歌詞も(個人的な問題として)いつも通り聞き取れませんから、非常に苦手意識がありました。バンド自体もその頃迷走していたのか本来の意図なのかはわかりませんが、デスボイスがあったりラップがあったりミクスチャーがあったりで、とにかく苦手でした。昨年の12月頃に聴いたのは、ラジオを垂れ流しにしていた時期で、新作のアルバムでたまたまゲストとしてギターの方が出演していたのでした。垂れ流しだったので誰が何を話しているか気にもとめずにいたのですが、たまたまUn deuxという曲(後で調べました)が流れてきて、それがとても好みで、気になって話に耳を傾けていたらDIR EN GREYの曲です、と。自分にとって俗にビジュアル系と称されるバンドの音楽というのは境界線上に位置するものなのですが、おそらくメロディーラインは好きだと思うのです。ただ、声を捻くって歌うから苦手だと感じる。捻くっているわけではないのかもしれませんが、もっと普通に声出したほうが歌の良さが映えるのにと思うバンドは多々あります。それで、ボーカルの京さんはいつの間にかメタモルフォーゼしていたらしく(変身よりもメタモルフォーゼが適切だと思っています)、その迫力に一気に引き込まれたのでした。聴き始めはやはり既知の曲や新作のアルバムしか聴かなかったのですが(時期によって印象ががらっと変わるので)、聴いているとどうにも自分が関心を持っていることに表現の仕方は極端であれど言及しているのではないか、と思うようになりました。歌詞については意味はよくわかりませんが(免疫反応に関して説明する部分を含む曲だけはどうしても毎回笑ってしまうのですが)、汲み取る印象としては感覚的に(自分の感じることと)近いだろうなと思っています。少し調べてみて、どうやらファン層の入れ替わりが激しいらしいのですが、その要因として表現が一定していないこと(時期によって雰囲気が全く異なる)と、こちらの方が自分にとって関心が高いのですが、世界観が成長しない、幼稚である、として京さんと同様に歳をとったファンが離れていくことが指摘されています。具体的に言及すると、DIR EN GREYの表現対象は「痛み」であるようなのですが、 その内容は戦争、中絶、家庭問題、少年犯罪など、いわゆるタブー視されているものです。社会は隠そうとする、きれいごとで上塗りするものに対して、生々しく表現することに意義がある、ということのようです。MVも規制される表現があるらしく、規制のないものをインディーズレーベルから発売してもいます(規制のないものしか見ていないので比較はできないのですが)。

 私は作家の重松清さんの作品を好んで読みます。彼の小説は非常に読みやすく、心の機微を追いかけるのに適していて、かつ、見過ごしてきたもの、蓋をしてきたものを間接的に彷彿させる作品が多くあります。社会問題に小説という形ではっきりと言及している作家で初めて知ったのが彼で、自身の吃音経験から書いたと思われる「きよしこ」は人気も高いように思います。重松さんに関しては、受賞も多々あるからなのか、世間の評価が好意的に感じます。社会問題、タブー視されるもの、として同様の言及をしているのに、その表現方法が異なることで、一方は嫌悪され(DIR EN GREYは根強いファン層があるのですが、オリコンに連なるようなメジャーな扱いではありません。昔の私のように苦手意識が強い人も多くいます)、一方は広く評価される。重松さんの作品は、チクリと刺さるような表現はあれど、気づかない人にはただの素敵な作品で終わる可能性があります。表現の難しさでもあると思うのですが、私は万人受けするものというのは、意図するものの解釈も多様になり、その本来の問題性が薄まると考えています。前にも書いたかもしれませんが、ソーシャルビジネスのように社会貢献をビジネスにすることで儲けを出すという側面が強くなって本来の意図を覆すことがある、ということと同質だと思うのですが。だからこそ、DIR EN GREYに惹かれたというか。バッシングも多々あるとは思うのですが(教育に不適切だとかそんなような)、これも前に述べましたが、汚いものに蓋をすることが嫌なのです。私自身が世間から見れば汚いものであり、見たくない現実であり、隠したいものであるから。ずっと目を逸らされてきたから、これは人前では話してはいけないことなのだという無意識の刷り込み下にありましたが、京さんが「隠したくない、隠してはならない」とインタビューか何かで答えていたことで、自分もそうせねばならない、してもよいのだ、と感じたのが表現に繋がったのではないかと思います。(誰かにとって)汚いものに汚いというレッテルを貼って本質を見ないこと、それは思考停止に繋がると考えています。子どもにはわからない、大人の社会のことだ、と言って話をしない人、それは自分が築き上げてきた世界観の崩壊からの逃避行動であると考えています。自分が知らないことを知ることや認めることは、想像の範疇を超えてくるので計り知れない恐怖でしょう。それでも、それを知ること、考えること、そこに大きな意義がある。それができない世界ならば、自分にとって生きる価値はない、そう思います。

 SNSの普及によって一億人口総作家時代になりました。誰でもブログ書ける。誰でも情報発信できる。その時流に乗った、それだけのことかもしれません。ただ、ネット上で批判しあって喧嘩して気に入らなければブロックして、というのは私が望む姿ではありません。そういう形が悪いかどうかの判断をするような立場ではありませんが、私にはあまり意味がないように思えるので回避しています。意見を頂いたら参考にするし、自分の糧にもなるのですが、自分と相容れない主張を言い負かしたいという意思はありません。自分が知っていて誰かが知らないものがあるとしたならば、それが何かの気づきになってその人の面白い意見を引き出したら自分にとって最高だ、という動機はあります。

 あとは、自分の意見を述べていいという自信をわずかながらも得たことでしょうか。承認欲求を拗らせているので、常に人の評価や顔色を気にしています。万人に受け入れられるものが正義であるという認識で生きてきました。それが京さんによって覆されたことと、もう一つは、今年度から実生活において異分野に足を踏み入れることになり、そこで自分のことを評価してもらえたという経験が大きいように思います。適性というものは人間が生きる上で非常に大切だと考えていて、度々言及していることなのですが、私は昔から「あなたはすごい、将来大物になるぞ」という、嬉しいのですが非常に曖昧で漠然とした評価を頂くことが頻繁にありました。何がすごいのかを聞き返しても、「なんかそう感じる」というこれまた曖昧な返事で。周りの人はただの印象としてそう告げてくれていたのでしょうが、私自身がそれに囚われてしまっていて。人と考えていることやその対象がややずれているのは認識していましたが、それがどうしたら「すごく」なるのかに葛藤していました。今もしています。「すごく」ないといけない、「すごく」ないと私という人間に価値はない、という悪いパターンの完璧主義思考があって、それに苦悩することは多くあります。私の特性はおそらく興味関心の複合性にあると考えていて、複合ですから物事をそれぞれを単一に専門として努力されている方々からすれば、評価に値しない、のです。私も元々は専門性を高めることに意義があり、それこそが「すごい」のだと考えていましたから、自分の専門分野を見つけねばならないと彷徨う時期は長くありました。先日も書きましたが(書いていないかもしれません)、それこそが、心理学、精神医学、それに付随するところ、人体、分子生物学、生理学、と辿った経験なのかと思います。それでも見つからなくて、結局常に考えていることを包括しているのは、自分が社会に包括されている以上は生活がありますから、その土台を対象とする社会学なのかな、と。社会学も非常に細かく分類されていますから、その中でも関心があるものとないものはさまざまです。ただ、私は自分を生きてきて、そこで感じたさまざまな違和感が興味対象である、そういうことだと思います。先述した異分野というのが、その社会学に関わるところであり、その(私が勝手に感じている)自由さから、私の考えを一つの形として直接の言及はなくとも認めていただいたこと、それが私の中の精神的な居場所となり、承認欲求が多少なりとも満たされたのかな、と。

 私の足枷の大きな部分は家族でありますが、足枷であると同時に居場所でもあるのです。そこからの断絶が現実味を帯びてきたのが就職活動という経験で、それも同時期にあり、影響を受けています。「すごい」自分が頑張ってエントリーシートを書いたのだから受かるだろうと甘く見ていたのが、鼻っぱしを折られて、現実を見たことですかね。自分の存在は小さい。他人に影響なんざ与えやしない。必要とされやしない。自己PRを構成するときに、中身がないのです。私の世界は自分の頭の中で完結している。それで誰にも理解されないと嘆いている。当たり前ですよね、見えないのだから。落とされて、塞ぎ込むかと思ったのですが、就職自体が適していないよね、と多くの人から言われ、それに救われた部分は大きかったです。ただ、社会に自分の能力は不要である、という現実は強烈でした。たかが就職活動で自殺なんて、と思う方もおられるかもしれませんが、する人はするだろうな、という印象を受けました。レールに乗っていれば安泰だよ、将来保証されているよ、と言われ続けて、いきなり、努力ではどうにもならない部分を判断されるのですから。努力でどうにかなる部分も多いのですが、ここも汚いものに蓋の影響が多分にあると思っていて。辿ると、生まれた時点である程度人生決まっているというのは本当にそうだと思います。努力でどうにかなるものがあれば、ならないものもあるから。

 社会に「私」はいらない。「私」ではなく「労働力」は欲されているとは思いますが。それでも私は生きている。ある一定層の人間で作り上げた世間が社会であるというのならば、私はその秩序を乱そうとも違和感を表現することに意義があると思ったので。自分一人だけが苦しんでいるということはありえないと思ったので、各々がタブー視されていることを表現してもいいんだ、と考えるきっかけになれば、というのもありつつ。そんなところでしょうか。

 私は自分が生きたいと思うように生きたい、誰かのために生きるのはもう散々だ、そんな吹っ切れなのかもしれません。