人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

集団を形成する人たちは笑顔が張り付いたように見えるの

 ぞっとした。思い出したくないものをたくさん引きずり出されたような、そんな気分だ。

 前々から気になっていた「滝山コミューン1974」(原武史著)を読みました。著者が昔住んでいた、バスが交通の命綱である”陸の孤島”の滝山団地にある滝山七小で、いかにして「滝山コミューン」が形成されていったか。それがドキュメンタリーとして綴られています。条件が揃ったために生じた滝山コミューンは、「水道方式」(従来の算数教育の「数え主義」に対し、数よりも量を先に学ばせるやり方)と「班づくり」を起点とした、日教組から生じた全国生活指導研究協議会(全生研)の教員による集団主義教育の目指した形でした。

 遣り場のない感情を持て余しています。以前にも書いたことがあるかもしれませんが、私は集団に馴染むことができません。空気を読むべき場面でも、理不尽であったり納得できないことがあれば、疑問を呈してしまいます。一般的に求められる社会性が乏しいのです(自分が必要だと思う社会性は身につけているつもりです)。そもそも私は幼稚園の頃から集団行動をせず、何かあればそれが目上の人に値する先生方に対してだとしても辛辣な意見を物申していた、と通知表に書かれていたので、性分なのでしょうね。やりたいことの目的に合ったことをその都度適した人とやるようにしていた(している)ので、知人は多いけれど友人は少ないと思います。それが良いかどうかは、個々人の志向にそぐうか否かです。ただ、小学校からは他のいろいろなこともあって慢性的な承認不足が始まったので、人の顔色を伺ったり、かなり無理して集団にいるようにしていたと思います。集団に属さないことの不利益があまりにも多すぎたため、自分の存在が何も影響を及ぼさない一方的な所属感であったのも強く自覚していましたが、特に喋るわけでもなく作り笑顔をしていたように記憶しています。グループダイナミクスが生じることに対して苦痛が大きくて、敢えて反抗的な態度をとっていたこともありました。その一方で、今の私からは想像もつかないでしょうが、常に人をまとめる役目をしていました。これは承認不足の微力な解消方法でした。代表委員会のような場でもよく質問をしていた気がします。納得できる答えを貰えた覚えはありません。中学の社会の教員が本当に苦手で、授業中に机を蹴り飛ばされたことがあって、とてもよく覚えています。蹴り返したから自分も悪いのですが、理不尽極まりない理由で蹴られたのはやはり納得できません。だからなのか元々なのかはわかりませんが、授業科目としての社会(地理歴史)は本当に嫌いです。普段授業も話を聞かないから理解もできず、それでもバカにされるのが嫌で、詰め込み暗記で点数を取るようになってしまったので、基礎は何ら身につきませんでした。地理歴史の重要性はひしひしと感じているので、まとまって勉強し直す機会が必要だと考えています。

 私の当時の武器は顔色の悪さでした。とにかく教室という場所にいることが嫌だから、朝粘ることができたら欠席、ダメだったら保健室に、と頻繁に逃げ込んでいたように思います。あとは落書きして現実逃避するしかなかった。今はイヤホンが逃げ場所だからさして変わりないのですが、自分の力ではどうしようもないものに抗う方法なんてなくて、逃げるしかないのでしょうね。それがある種の社会性でもあって。私にはそれがなかったから物理的に遮断するか我慢するしかなかった。今もない。あとは職員室。あの先生ならわかってくれる、と思って足繁く通った気がします。大人だから笑って流してくれていただけなのですが、それでも話を聞いてくれることがひたすら嬉しかった。先生の好みももちろんありますから、こちらが捻くれているのに付き合ってくれるもしくは先生自体がちょっとおかしい人を無意識に選んでいました。それは今もやっていて、今は集団に所属しないことの不利益が少ない環境なので、いわゆる「みんな」に対しても個々に応じた距離感をとるということができるようになった気がします。

 集団に対しての恐怖心は強いです。人は各々の経験に基づいて人格が形成されると考えているのですが、経験はそれぞれ異なるから考えも違って当たり前なはずなのに、同調圧力を以ってして、従わないと物理的精神的な罰を加えるというのは理解しかねます。何が怖いかって、民主主義を唱えて集団主義教育をすること。それが現在の流れに近しいものを感じること。政治宗教お金の話はタブーと言いますし、人の信条信仰は好きにしたらいいと思います、自分と合う合わないはもちろんありますが。ただ思うのは、自分の意にそぐわないものや考え方に対して捩じ伏せよう、捻じ曲げようとするのは対立を生むだけでしょう。相手を攻撃して得られるものは賛同ではなく恐怖です。尊敬なんて以ての外。ラベリングを武器にしてはいけません。聞く耳はもう持てないのだろうとは思いますが。