人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

表現の熱量とその濃度について

 先日に引き続き、音楽に関して書きたいと思います。今回は、社会の変化とそれに付随した音楽の変遷に関して感じることについてです。

 私が音楽というものに触れたきっかけが何かは覚えていませんが、幼児期から音に反応する癖があったらしく、今でもやるのですが、音が鳴ると身体が動いていたようです。踊るのではなくリズムをとるという形で。幼稚園から小学校低学年までピアノおよびリトミックを習っていたのですが、技術の習得はほとほと未熟でままならず、好きなことしかしないものですから到底上達するわけもなく、そのうち練習に飽きてピアノを辞めました。ただ、好き勝手に弾くのは今でもたまにやっていて、その基本が短調もしくは変調を含むということに自分の根源があるように思います。嗜好にもその影響があって、短調の曲を好んでいます。変調があれば最高です。小学校のときに、物語にあわせて作曲をするという授業があったのですが、小学生ですから表現を抑制するような社会性も(未だに)未熟で、短調ばかりでしたね。それでも曲を採用していただいたことは、承認欲求がとても満たされたのを覚えています。雨の日だからよかったのかな。

 一番音楽を聴いていたであろう時期は、小学校高学年から中学校にかけてです。年齢がばれるのですが、ちょうど世紀の変わり目の前後で、MTVとスペースシャワーTVでひたすらミュージックビデオを見ていました。90年代前半はCDを借りて聴く、情報源はランキング形式の音楽番組でした。小学校低学年ですから、親や兄の嗜好をなぞるくらいで選択肢を持つわけでもなく、自分自身の嗜好はあやふやなままでした。それがひたすらミュージックビデオを見るということによって、選択肢を持ち、嗜好が表れるようになりました。90年代の音楽は、私が知っている範囲では、分かりやすく二分化されていたように思います。ランキングチャートに常に載るようないわゆるメジャーなものとそれ以外です。アーティストも人間ですから表現が機械のように一元化しているわけではもちろんないのですが、主たる関心とその表現方法によって二分化されていたのでしょう。表現方法というのは、極論でいえば、励まそうとするのか、隠したいものをもありのままに表現するのか、の二軸です。1998年前後から二分化がはっきりと崩れてきたように感じているのですが、社会の変化(バブル崩壊等)によって崩れた規制やなんやらが表現の嗜好選択のタブーを取っ払うのに満を持したのではないかと考えています。そんな頃に小学生の自分からすれば無法地帯のミュージックビデオの垂れ流しですから、自分の中にある違和感と同調するものを選ぶという抑圧ないし規制されていた好奇心に逆らえるわけもなく。そのときに好んでいたアーティストや今の嗜好に共通点を見出すことがあるのですが、その例としては、THE BACK HORNBLANKEY JET CITYTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTMUSENEW ORDERなど、また、先日も挙げたDIR EN GREYもそうですね。各々のアーティストにはそれぞれ熱烈なファンの方が多くいらっしゃるので、あくまで自分が考えることに過ぎないのですが、それぞれの主たる関心の方向性が似ていると感じることがあり、そういう意味で共通点としました。表現技法は異なれど表現方法は近いというか。全てのアーティストがそうとは思いませんが、自分の中の違和感や、確立している人であればその世界観、そういったものを表現するために音楽を用いているのだと思います。その違和感や世界観を捻じ曲げたり迎合することなく表現していると感じる、そんなアーティストに惹かれるのだと思います。私は違和感を抑圧されてきた身ですから、他に屈しない強さをうらやましくも尊敬します。また、アーティストの表現の根本がどんな形で内在しているのかはわかりませんが、私のそれは言葉ではなく絵だったり映像だったり蠢いていたりして、空間把握能力が低くて表現ができないので、それができるということも素晴らしく思います。

 さて、時は過ぎて近年のことですが、音楽は技術の発展もあってか急速に多様化ないし複雑化しています。インターネットによる表現の場の拡大や加工編集のハードルの低下など、さまざまな要因によって創作が非常に身近になりました。それがもたらす利点はやはり選択肢の増加や無限性でしょうか。何でもできる、に語弊がないというか。その反面、表現が溢れかえっていますので、どうしても似通ったものは増えています。エンブレム問題を揶揄しているわけではなく。私の嗜好は、表現の技術ないし完成度に反応しているのではなく、その人のもつ関心、内在する違和感もしくは世界観に向けられていることを先に述べました。そのため、表現のハードルの低下によって、そういった強烈な歪みの純度も低下したように思います。たしかに技術は高まっていて、プロもアマチュアも大差ないと感じることもあります。ただ、その表現対象への熱意はそうではないというか。音楽に限らずの話なのですが。だからなのかはわかりませんが、私は最近は音楽に関しては逆行することが多いです。クラシックや歌謡曲は狂気性の宝庫だったりしますよね。あと、熱意の希釈に関する別の要因として考えられることは、違和感や世界観の共有です。表現の簡易化によるハードルの低下は、他者との類似点の抽出ないしコミュニティの形成に一役買いました。それによって、自分の違和感や世界観を異物とみなさなくなることで安心感を得ることができる一方で、その熱意はどうしても薄まる印象を受けます。アーティストへの興味がだんだん失われていくのも、世界観やその熱意への共感および尊敬の(自分の内部および外部環境の変化を要因とした)自己との不一致と同時に、そういったことがあるのではないかと。

 音楽を主体として書きましたが、音楽や創作活動に限った話ではないと考えています。母体数の増加による純度の低下、その反面での最上層の突出はどこにでもある事象です。労働能力しかり学業しかり。ただ、創作の門戸は広がったのに対して他は格差が拡大するばかりのように感じます。生存の絶対(学業は必要)条件であることないしそこから発生する金銭が原因なのでしょうか。自分の身の安定の確保は絶対に必要なのですが、だからといって利益を独占するのはいかがなものでしょうか。私は人よりも長く学業の場に身を置かせていただいておりますが、知識も理解解釈も何もかも未熟ではありますが、学問の横断の重要性というものは深く身に刻んだつもりです。経済性のない学生を何年もやらせていただいているのですから、得たものを社会に還元するのが至極真っ当であると考えています。他の方の専門知識から学ぶことは多かれど、自身の複合性を折る気は毛頭ありません。この熱意は、生理学に触れたことがやはり大きいです。某大学の某センターで物理化学を根底とした人体の再現を目指しているようですが、生物屋の教授が苦言を呈しておりました。人体はそんな単純じゃない。私はこの教授が大好きで、尊敬しております。

 私の文章の単語が難しいとのご意見もありますが、考えを私と同じ道筋で辿っていただくことで内面の違和感をより提示できるのではないかと考えています。自分でも適切な表現を選択できているかはわからないのですが。英単語のがニュアンスが近いと思う言葉もあるのですが、なるべく片仮名を使いたくない。ニュアンスって書いたけど。日本語の美しさは計り知れないですね。平仮名、片仮名、漢字による複雑さや繊細さの雅ときたらもう。

 誤解を招きそうなので補足をしておくと、平易な言葉を見下しているわけでは決してありません。それを用いて伝えたいことを適切に表現するには膨大な知識ないし技量が必要だと思うのですが、その能力が自分には不足しているだけのことです。学問でも、小中学生でも理解できるように教えるのが優れた教育者だと思いますが、それが自分にはできないというだけです。最初は心がけていたのですが、違和感を上手く切り出すことができないので、伝えることよりも表現することを優先した結果です。後にまた変わるかもしれませんが。