人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

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BPMの高い(大きい)かつ攻撃性の高い曲を聴くと落ち着く傾向があります。気持ちを沈静化させるためにはテンポの緩やかな曲を聴くほうが落ち着くのではないかと思うのですが(またそういった研究結果もあるのですが)、そういった仮説や結果に反した実体験があるので関係性が気になっていろいろと調べごとをしていました。生理学的な直接の神経や脳などへの伝達、それを介在するホルモンなどの影響が上記の仮説や結果に当てはまるものと思われます。脳波への影響をみる研究などでもそれに近しいような検証がなされていました。

では、私の傾向、軽音楽部のとある層にも同様の傾向がみられるのですが、それに関して考えられることは何かというと、一時的な感情の起伏に応じて曲を聴いているのではなく、ストレッサーへの対処を音楽で成しているということです。攻撃性の高い、という非常に抽象的な表現をしましたが、要するに(自分とは異なる立ち位置から見れば)反社会的な音楽ということです。そういったものにより、共感を覚え、曲が気持ちの代弁をしてくれている、そういった状況によって自分なりのストレッサーへの対処(逃避行動)をしているようです。

反社会的な音楽というと、自分の中ではロック(現在は包括するものが多様すぎるので、およそ〜90年代頃のものとします)とヒップホップを思い浮かべます。歴史的なものを辿っていくともっと大元のものとかたくさんあるのですが、とりあえずこの二者について触れます。

ヒップホップはあまり聴かないので詳しいことはよくわかりません。昔エミネムをよく聴いていた時期がありましたが、以前も書いたかもしれませんが(言語を問わず)歌詞が全く聴き取れないので、何を歌っているかはさっぱりわかりませんでした。ただ音が好きだっただけ。当時はちょうど2000年頃だったのですが、彼は白人ラッパーとして称されていました。なるほどヒップホップかと思い、他のアーティストも聴いてみたのですが、さっぱりわかりませんでした。そもそも言葉が聞き取れないので、ラップの面白さが理解できないのだと思います。同様にメタルに関しても、デスボイスで叫びまくってて何言ってるかよくわからないのが苦手だったのですが、メロディアスなものがあると知ってから好きになりました。デスボイスの良さは極々最近少し理解できたような気がします。血が湧く感じというのか。で、エミネムに関して興味深い論文を見つけたので読んでみました。「『エミネム』の文化社会学ーヒップホップ/ロックの真正性・正統性指標による「差別」表現の解釈ー」(栗田、2007)というものです。ヒップホップは黒人が、ロックは白人が、それぞれ反社会的、反逆性、アウトサイドの側面を以ってして自己表現をするものとして定義されています。その背景において、エミネムという白人ラッパーに対する評価について考察しています。ヒップホップの評価の尺度には、リアルであり続けること(keeping it real)、娯楽(言葉遊び)などがあるようですが、言葉遊びの中には差別表現も多くあります。「ニガー」という言葉がその一つとして多用されていて、日本語では「黒人、黒んぼ」といった意味を表します。興味深かったのは、黒人ラッパーが「ニガー」と言っても何も思われない、むしろ言葉遊びとして評価されるのですが、エミネムが黒人女性に対して「ニガー」と言ったときに大バッシングが起きたことでした(ヒップホップの雑誌では大きく取り上げられたのに対して、ロックの雑誌では全く取り上げられなかったことも面白いですが)。ここからわかることは、ヒップホップの場においては、人種に重きが置かれているということです。黒人ラッパーが「ニガー」と言っても評価されるのに、白人ラッパーが「ニガー」というと批判される。ジェンダーへの差別が軽視(矮小化)されると同時に、黒人の中で自己執行カテゴリー(自分に対してラベリングをするようなもの)があるということです。人種的ポジショナリティとも表現していました。自己執行カテゴリーによって、ラッパーが権利を奪われた人々の代表として「言葉を用いる権利の擁護」をする表現の一つとしてヒップホップが存在しているようです。

このような自己執行カテゴリーを背景として、それぞれ異なるコミュニティにおいて自己表現がされていることは一種の共存として面白いと思うのですが、コミュニティに自分が通ずるものがあるのか、そういったことが(ここで言えば)音楽のジャンルの嗜好につながっているような気がします。そういう意味で音楽に共感を覚え、私はそこからストレッサーの対処に繋げているように思います。

この自己執行カテゴリーは、音楽に限らずさまざまなものに現れています。最近また重松清の小説を読み返しているのですが、なぜ彼の書く小説が好きなのか考えてみたところ、親子や友人関係などの人間関係の中に見られる陰りを帯びた部分に焦点を当てているからではないかと思いました。あとは単純に読みやすい。しかし、読みやすいだけでは嗜好までには至らないので、やはり前者に対する共感が重要であるように思います。

複数の方に薦めていただいた鷲田清一氏の本は、私はなかなかページを進めることができませんでした。取り上げているテーマ自体には非常に関心があるのですが、おそらく背景が全然違うのだろうなと感じることが多くありました。この背景というものにコミュニティの異質性を感じるのです。

人間関係にもおそらく作用しているでしょうね。共感でなくとも、背景への想像ができない人とは話が続かないので、そういった面では自分にとってカテゴライズは重要なのかもしれません。

以前ラベリングはクソだ、最悪だ、と書いたのですが、その気持ちもあります。おそらくここにも自己執行カテゴリーが作用していて、他者から咎められる(直接的でも間接的でも)ことに対して非常に嫌悪感を抱くのです。咎められるならわかりやすいのですが、共感してくるのも個人的には嫌です。これに対しては、想像力の差が大きい要因だと思います。

つまり何なのと言われると、コミュニティや個人の経験に基づいて嗜好が形成されているということです。ごくありふれた話です。私が何でこんなにも捻くれているのかというのも、自分の経験と同時に、共感できるものに嗜好を示した結果ではないでしょうか。偏れば偏った人間になる。そういった意味でも多様性共存は非常に大切だよ、本当に。

あと、調べているときに、クラシックは高尚なものである(比喩)といった結果の論文がありました。クラシックを教養と思うのかジャンルの一つと思うのかはまた分かれるものだと思いますが、高尚なのだと言いたげな文章でした。

 

夏だからなのか、身体が疲れやすいです。これを書く間に5回くらい横になりました。むしろ横になりながら書きました。