人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

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糸を一本ずつ、ちょきん、ちょきん、と切ってゆく。そうすれば、私は逃げられる。情報量が多すぎて、何かを手放すしかないときがある。だいたい最初に切るのは、耳だ。音を遮断して、視覚からの情報を最大限に広げ、その世界で私は傍観者になる。そうすれば、考えなくてすむのだ。

 

本を読むのは好きだけれど、私にとって小説はパンドラの箱だった。思い出したくないことが多すぎる。小説の内容を思い出したくないんじゃない。それを読んでいる自分を思い出したくないのだ。あまりに孤独で、不器用で、かわいそうだから。

ちっぽけな自分を哀れに思った私は、小説は下等だ、新書を読めば高尚な自分になれるのだと浅はかな勘違いをし、小説を読まなくなった。はっきりいって、新書の内容なんか全然理解していない。ただ読んでいるという事実のみが、自分を何かから守ってくれた。それで何が身についたかというと何もない気がする。難しい言葉を無知なりに並べて、誰かに認めてほしい、ただその気持ちが増す一方だった。

難解にすればするほど、どんどん本心が消えてゆくように思える。それでも、正直に思うがままに書いてしまえば、虚をつかれるような気がして、怖い。

自分の言葉は薄っぺらだ。何も伝わらない。それは自分を飾っているからだ。飾らないと何も残らないからだ。

私は本当に弱い。石を投げればそれだけで倒されてしまうような、ロールプレイングゲームで言えば練習用のモンスターみたいなものだ。こんなに弱い自分が居られる場所が、小説の世界だった。

声をかけられなければ、何時間でも読み続けていられるし、図書館はどうしてあんなに閉館時間が早いのだろうといつも思っていた。図書館に入ってすぐ左側の奥まったところには難しそうな内容の小説がたくさん並んでいて、理解できるわけでもないのにそこから一冊本をとって、その奥にある狭い机でそれを読むのが好きだった。もう20年近く前のことだ。

 

私は今日、久しぶりに小説を読んだ。

昔の自分に、下等だ、と怒られるかもしれないが、なんだかほっとした。今でもちゃんと一人になれるし、訳のわからない集中力は健在だったし、何よりも世界が色鮮やかだった。人の目を気にしないで、無理にかっこつけないで読んでいいのだと、なんとなくそう思えた。

 

 

昨日考えていたのは、文章は人を表すということ。また、鏡であるということ。私の文章がまれに難解な言葉を使ったり全体的に鬱屈としているのは、おそらくネットの影響を強く受けているため。大学生になってからネット漬けになって、ネットの人たち=自分の意見を持っていてかっこいい=斜に構えている、ということで自分の文章も中身がないのに斜に構えたものになってしまった。昔はこんなに捻くれていなかったと思う。

私は見たもの触れたものの影響を受けすぎるところがあるし、確たる自分がないときには誰かの真似でしか進めない。その真似すら上手くできない。今はツイッターの影響を特に受けていると思う。ネット断ちしたほうがよさそうだなあ。

 

その一方で、物心ついた頃からネットがある世代をうらやましくも思う。ネットがあれば、身近に共感できる人がいなくても、ネット上に見つけることができる。同じ嗜好、同じ価値観、立ち位置、ものの見方、何でもいいけれど、そういった人たちがいる。匿名性が高いから、独自のそういったものを隠さない人が多いし、だからこそ見つけやすい。それが本当にうらやましい。

私の場合、おそらくそれを本に求めることができたのだけれど、自分の本心を見たくなかったから出会うことが難しかった。異質であることに気付きながらも異質であることを受け入れたくも受け入れきれなくて(そもそも人はみんな異質だけれども)、能動的である読書では、自分から遮断してしまうと何かを得ることはできなかった。

その反面、ネットというものは受動的な側面があるので、比較的見つけやすい。入口は同級生とのSNSの利用が多いのかもしれないけれど、検索ツールが本当に強いなと思う。疲れた、と検索すればたくさんのアドバイスや経験談が出てくるし、不満足ならばキーワードを足してゆく。検索は能動的だけれど、その結果は受動的であるというか。

ネット上で、感性や考え方に関して好きだと思う人がいるのですが、叩かれても炎上しても一貫しているんですよね。その人はあらゆる物事において少数派であることが多いけれど、私は大衆に迎合するのが是かといわれるとよくわからないし、自分が良いと思うものを是とするので、その人がとても好きです。そういう人が一人でもいれば、自分の考え方を否定しなくてもいられる。だから、それを(早い段階で)見つけやすいネット世代がうらやましい。

こないだ少し考えたことだけれど、自分が全部正しいことをしているかというと完全にノーだし、一貫性もない。矛盾も多い。それでも(その場その場における)自分の価値観には反していないと思う。価値観は流動性があるものだと考えているので、過去の意見とは違ってもいいと思っている。変えるのは悪いことなのだろうか。そもそも自分に対して他者はそんなに関心を持っていないので、その人たちのために、ああ考えを変えちゃった矛盾しちゃったどうしよう、と悩むのも客観的に考えるとなんだか不思議な話だ。そうするくらいなら、私の良し悪しを含め、個として受け入れてくれている人たちを大切にしたい。

今は、変だなと思うことに対してこうして文章をしたためているけれど、次はそれをぼこぼこに叩かれて、表現することを悪と考えるかもしれない。その後は、叩かれた論点に関して徹底的に調べ上げるのかもしれないし、そうすることで納得した点とそうでない点が見えて自分の新たな価値観ができるのかもしれない。

これは一見すると、意見を変えた、逃げた、と言われるのかもしれないけれど、自分の視野が広がったと考えれば、変えることはむしろ肯定的な意味を持つ。今後ずっと自分の価値観を変えないでいられる程、今の私をたいそうな人間だとは思わない。ただ、根本にある自分の感覚を信じること、それだけは変わらないでいたいなあと思う。