人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

リセット

実家にいると、ほとんど声を発しません。廃人のようになります。おまけにアトピーもものすごく悪化して、化粧すらしないで選考に向かうことが多くなりました。これで落とされるなら法人への就職はもう諦める。アトピーは死なないでしょ、とか、重病じゃないでしょ、とかそんな認識で言われることもあります。私はアトピーによって社会的精神的に殺されることはあり得ると思っているし、正直今の私の状態では社会的に自立不可能です。首や腕を動かすと痛みと痒みに耐えられないし、顔は滲出液が出て止まらない。炎症によって体力も奪われるから立っているのもしんどくて、でもそんなことは他人にはわからない。アトピーで中退した人の話を聞いたことがあり、その研究室の教授は、気にすることないのに、と話していました。ああ、当事者でなければ、その程度の認識で当たり前なんだよな、と。アトピーに限らず、当事者でなければ想像なんてできない。自分の家庭がおかしいのか、これが普通の考えなのかはわかりません。当事者同士であってもマウンティングや格付けが行われることもある。のんびり暮らしたいです。疲れる。人と暮らすのは私にはできません。

 

他人様のブログを読むと、キラキラしているなあと感じます。生きる意味を見出して、何かに挑戦していて、応援したくなる。自分のブログを読むと、本当に負のオーラがすごいですね。充満している。先に書いたことは本当に負の極みだと思って書いたのですが、そうでないむしろ元気な普段書いている記事でさえも負のオーラがひどくて悲しくなりました。

 

最近は貧困や格差の記事を目にすることが多く、そういったことを考えるに加え、今日たまたまハートネットTVで自殺のことを取り扱っていたので、かつ自分の体調がよくないものですから、いろいろと思うことがあります。健康で文化的な最低限度の生活を、はたして自分はおくれているのだろうか。そもそも最低限度とは何を想定して誰が何の基準で決めたのか。その人たちは、何らかのマイノリティのコミュニティに所属したことがあるのか。当事者になったことはあるのか。憲法に定められているので誰でも享受する権利(義務)ではあるが、この基準を満たしている人は想定されているよりもはるかに少ないのではないか。

誰かに喰い物にされないためには、考えるしかない。知識武装するしかない。自分を守れるのは自分しかいない。そんなことがあまりにも多くて、悲しくなります。助け合いなんていうものは、本当に存在するのでしょうか。

 

こちらの記事を読みました。紹介していただいた文章です。まさかこの文脈で出されるとは思わなかったでしょうが、今の私が感じたことを書きます。

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対話の対となる言葉を(便宜的に)会話と置くとすると、会話とは、足場の削りあいである。相手の足場を削り取ることにより、相手を蹴落とし、見下ろすことができる。作り笑顔の仮面を貼り付けて、相手の目線に合わせて声をかけながら、足はものすごい勢いで足元の土砂を蹴り飛ばしている。直接的には手を出さないので、真綿で首を絞められているよう。

世間的によく語られる対話とは、足場の共有を目指すものである。足場を共有すること自体は、悪いことではない。マイノリティのコミュニティ内で行われることもあるピアサポートもその一種だと思っている。しかし、あくまで人間という名の集合体に含まれた個でしかない。完全に一致することはなく、差異を見つけたときには、またマウンティングが始まる。無意識のマウンティングは社会に蔓延している。意識的なものにはとりわけ悪意を感じることができるので対峙することもできるが、無意識なものはどうしていいかわからない。距離を置くのが一番いいとは思うけれど、そこに気づくことが初期段階では困難で、かつ気づいたときに距離を置くことができるかどうか。一歩間違えると孤立しかねない。ということを考えると、共有は諸刃の剣になり得る。

ここで述べられている対話は、その共有に対する抜け道を提示してくれている。共有しきれないもの、つまり異質なものを異質なものとしてそのまま受け入れることを前提として人に臨むということである。異質なものに触れるとき、不安や恐怖が身に纏う。私は、対話もそうだが、対峙するものは鏡だと思っている。異質なものとの対峙は、まだ知らぬ自分との対峙であるような気がする。自分の経験として、周囲が優秀で自分のことを受け入れてくれるときには、自分は狭い範囲でしか物事を考えない。しかし、それを応援してもらえる環境であるから、深く深く追求することができる。その一方、周囲と対峙して孤立するようなときは、時間はとてもかかったが、考え方の幅がものすごく広がった。最初はもうしんどくて、自分が死ぬことが最善であるように思える。どうして理解し合えないのか、と何かに責任の所在を求めるが、そんな都合よくすすまない。ひたすら自分を責めて責めて、責め疲れたときに、異質なものを異質なものをとして受け入れた。死ぬか諦めるか、みたいな状態だったのかもしれない。

世界が狭いほど、最初が怖い。狭ければ安心できる。手の届く範囲で全てが納まる。そのかわり、見えない部分はその中身がどうであろうと遮断する。現状で満足できるものが10あるとして、見えない部分に10000が潜んでいようとも、見えない不確定なものは受け入れない。社会はそんなことだらけだ。知らないものは受け入れない。自分の所属する狭いコミュニティが正義、それ以外は悪。

未知は恐怖。ただ、未知を抜けた先には新たな生がある。つまり、現在の自分の死を経て、新たな生を受ける。そりゃ、誰しも死ぬのは怖い。ただ、私が思うに、これは強くてコンティニューを意味する死である。私はチートが好きだから、強くてコンティニューを選んだ。選んだというかいつの間にかそんな環境にいた。環境の選択は自分次第であるので、そういった意味では選んだのだと思う。

何回でも死んでいいのだ。過去の自分は何通りいてもいい。今の自分が全てのいいとこ取りをして、且つ周りの異質なものを共有せずとも自分の何かとリンクさせる。異質なままで存在を受け入れる。まるでガジェットのようだ。アップデートしていかないと消えそうな電波でイライラしながら接続を待たないといけない。だからたびたび自分を振り返る。余地があればどんどんアップデートしていく。死んでいく。

 

おそらく、求められていた感想とは違うでしょうね。死ぬのは怖くない。

文章を書く上で、ですます調とである調が自分の中でどういう意味を持っているのかが気になりました。

上記の意味での死ぬことに関して、多くの人に気づいてほしい。ただ、そのきっかけと対峙する人はあまりいないような気がします。もしくは気づかない。とりあえず自分としては、マウンティングするような人が減ってほしいです。自分も極力フラットでいるようにしたい。

今日はあまりに支離滅裂でひどいですね、早く帰りたい。