人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

目隠し

気温の変化と台風の影響により、最近は神経の恒常化が上手くなされていません。蕁麻疹も頭痛もひどく、体調がすぐれないため、作業効率が非常に落ちています。改めて身体構造の複雑さを感じます。何やら今は寒暖差アレルギーだかなんだかという言葉があるようですね。何でもアレルギーにすればいいというものではないよ。そんなことしていると、怖くはなくなるけれど見えなくなる。

 

さて、自分の中でなんとなく先延ばしにしていたことを書こうと思います。

先日、LGBTに関して授業をするということで、その講師の方との交流の場に同席させていただきました。近年の風潮からか、わりとゲイやレズビアンの方と出会うことがあります。ただ、その人なりのLGBT(Q)に関する考えについてじっくりと聞く機会はなかったので、実質初めてそういったお話を聞くことができました。何となく知ってはいたのですが、コミュニティが非常に狭いということを伺いました。しかし、それはゲイに関してであって、レズビアンはもう少しゆるやか、トランスジェンダーに関しては幅広いコミュニティであるということがわかりました。

私は、自分のことを性別という括りでは女であると認識しています。それは、身体的な性別のことを指します。精神的な性別はというと、正直よくわかりません。小さい頃は兄への憧れや無意識の抑圧やラベリングによって、男性性への憧れが強くありました。その後は女性性への強制感があり、女性であるということに何となく追従しなければならないという強迫感があったように思います。何も考えていないときも、もちろんあります。ここ数年は、自分の性別がよくわからなくなりました。自分自身の身体に関しても(自分の基準からすれば)身体の枠という意味で形は気に入らないし、違和感もあります。かといって性別の意義がよくわからない。男性でありたいのか、女性でありたいのか、考えてみてもどちらへの願望もない。

そもそも常に感じるのは、自分が非常に動物的であるということです。人間ももちろん動物なのですが、それよりもどちらかというと、私は実家の犬に非常に親近感を抱きます。彼は自由です。近年のペットブームのようなかわいがりは一切していません。なんというか、家人のような。私は小さい頃に祖父母を亡くしているのでよくわからないのですが、家で新聞を読んでいる祖父がいるとしたらこんな感じなのだろうか。例えば犬のような、動物に対して感じるのは、感性に忠実であるということです。己の感性を基にして行動をする。そういった面に関して親近感を覚えるのです。

また、昔に「生物と無生物とのあいだ」という本を読んだのですが、内容関係なくその題字に自分を当てはめていると落ち着くことが多々あります。自分ははたして生物に該当するのだろうか。無生物ではおそらくないです。でも生物かと問われるとよくわかりません。

自分の身体が、ただただ容れ物のように思えることがあるのです。身体は、元素から成り立ち、結合を経て構成されます。組織や器官、臓器を神経などが介在し、複数の機能によって活動を起こします。脳はその中で思考を司ることはわかるのですが、発生学の観点からは、脳はあくまで腸から生じたものです。腸は、反応による判断をします。私の感覚は、この「判断」に近い。動物に対しても同様なのですが、人間という生物からは、動物や腸の存在は「遠い」。動物も腸も、生物といえば生物です(腸に関してはヒドラを考えていただければ何となくニュアンスが伝わるでしょうか)。しかし、人間はそれらと線引きをする。そういった点から、自分は、人間よりも動物に近い、生物と無生物のあいだの存在であると感じるのです。

トランスジェンダーのコミュニティがはたしてこの考えを受容してくれるのかはわかりませんが、幅が広いよ、と伺えたことがとても嬉しかったのです。もしかしたらこの考え方を共有できるかもしれない。そんな風に感じました。以前も書いたかもしれませんが、私は孤高の人でありたいとは全然思っていないし、そもそも人が好きだし考えを分かち合いたいと思っています。だからこそ、自分の考えが異質であったり受け入れられないということが非常に寂しいのです。なので、ブログで誰に問いかけるわけでもありませんが、独り言を書いているのです。コミュニティの全員に受容されることは不可能でしょうが、敷居が高くて躊躇していたものを、手をとって導いてくれたというか、そんな感覚でした。あ、その講師の方はゲイであってトランスジェンダーではないので、コミュニティは違うらしいです。

性別は記号です。名前も、年齢も、所属や肩書きも、みんな記号だと思っています。あくまで容れ物に付けられた記号であり、それが本当に私なのかというと、よくわからない。この容れ物によって得てきたそれらの記号は、容れ物のものである。私は、自分の性格(思考)がたくさんあります。おそらく皆さんもそうだと思います。あっけらかんとしていたり、人懐っこかったり、心配性、怒りっぽい、喜怒哀楽が激しい、無関心無反応、論理的、思慮深い、浅はかで短絡的等、まだまだたくさんあります。性格検査とかで傾向を調べるときには、選択肢に中間がないのでどれにフォーカスすればいいのかよくわからなくなります。選択肢がぶれるので、嘘つき認定されているかもしれません。このように、容れ物に多くの性格が内在しているのです。性格が状況に応じて変わり、たまに止まって会議している感覚です。性格を制御できないわけではないので、多重人格とかそういうものではないと思います。

そもそも、多重人格とか統合失調とかは障害扱いされていますが、ああいったものは誰でもなりうるし、常には見えない意識しない考えないというだけで、障害じゃないと思うのです。だからその答えは自分の中にあって、その根本を探す必要がある。そういう意味で、開かれた対話は有用だと思います。それは障害に限らず、足や心が止まるとき、頭が止まるとき、何かがスムーズに進んでいないと思ったら、基本的にそこに立ち返る必要があります。身体的医療に関しても同様で、外科手術が必要な外的要因による障害は異なるのかもしれませんが、糖尿病やら内的要因によるものも、根本の治療が必要。原因療法ともいえるかもしれませんが、ちょっと違う気はします。心療内科でも糖尿内科でも、それを無視して薬づけにするから、患者たちは「薬が効いていない」と怒るのではないでしょうか。少なくとも私は反発心があります。糖尿病にはなってないけれど。

で、記号に関してですが、人とお話をするときに、記号だけで私を判断しているのだなと思うことがあります。会話の導入としてそれらを用いるのは構わないし常套句なのですが、常にそれで判断されるとさすがに嫌な気持ちになります。私自身は記号とは分離した存在であると思っているし、容れ物と話したいのならば別に私でなくても構わないのではないか。簡単にいえば他者からのラベリングですね。学生だから社会のことはわからない、女だからこうするべき、地元で就職するなら実家に帰るんでしょう、などさまざまなことを言われますが、それは記号とのおしゃべりにすぎません。私の思考はそこには介在していない。とりわけ、自分はもうそれ知ってる、あなたもこうしたほうがいいよ、という言葉は非常に不快。何か物事を勧めてもらうという意味とは全く異なります。むしろ勧めてもらえるときは非常に嬉しいです。アドバイスともまた違って、「こうしろ」という強制的な概念が含まれているかを表したつもりです。他人の思考をなぞることは不可能だと考えているので、他者から自分に対してそれをやるのもおそらく無理でしょう。自分はこうだった、で済ませればいいのに、とよく思います。私は、自他分離ができている人がとても好きだし尊敬している、という話はおそらく以前も書きました。できている人は多くないけれど、ちゃんといる。その人たちは自分の道をしっかり歩んでいて本当に尊敬しています。私がうだうだしているときも、客観的に見てくれて、世間的な評価を下すこともなく、ただその人が考えることを告げてくれる。ああ、すごいなあ、といつも思います。自分の中で考えが整理できていないときは、ただ会話をしているだけだけれども、その中で私自身が整理したり変化を見出したりするヒントをいつの間にかくれる。私自身がこのような経験を多く積み重ねているからこそ、開かれた対話におけるmeaning makingという言葉の感覚もなんとなくわかります。むしろ抽象的な部分にこそ答えがある。

枠や記号に当てはめてしまえば、あらゆる物事を可視化することができるので、不安も恐怖もなくなるのでしょう。わからないものに対して考える労力を省かれる。しかし、それこそが思考停止の始まりです。私はあくまで自分のことしかわからないけれど、なんとなくそう思います。

ちなみに、開かれた対話って何ぞやってなると思うのですが、「オープンダイアローグとは何か?」という本を読みましたのでそういった言葉を使いました。私は著者の感覚があまり好きにはなれなくて、オープンダイアログは著者が説明する概念とは(感覚的に)ちょっと違う気がするのですが、まあそういった本を読みました。著者と合わないと、本読むのが遅くなります。異質なものを噛み砕いて読解しようとするからかな。

いろいろ書きましたが、いつもこんなに考えて会話しているわけではありません。むしろ何も考えていないです。ただ、ふとそう考えるときがあるというだけなので、今後お話する機会がある場合でも身構えずにいていただけたらと思います。