人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

違和感

誰も傷つかない場所というものはないのでしょうかね。

今年度はいろいろな機会へのお誘いをいただいて、とても貴重な出会いがたくさんあります。その中で気づくことも本当に多くあります。共鳴することもあります。そうでないこともありますが、それもまた一つの気づきや刺激になっています。

そんな中でいつも私がとるスタンスは、よそ者。

現住所と本籍が異なりますし、今の場で経済的に自立をしているわけでもなく。

よそ者だから、どこか他人事。それでも、客観視できるからこそ個への繋がりは多く見つかる。よそ者だからこそ、しがらみがない。良くも悪くも一過性。

そんな感覚で身を運んでいるのですが、他の方々に対してよく感じるのは、縛られているなあということ。好き好んで縛られているのではなく、雁字搦めとまではいかないけれど、何かに囚われているような。

それに対して必死に足場を固めている。年をとればとるほど顕著に。

つらくないのかなあ、と単純に思います。

私に責任感がなさすぎるのかもしれませんが、責任は自分で負える範囲しか結局は負えない。だから無理をする(≠頑張る)必要が本当にあるのかというと、実はあまりないのではないかなあと。無理をしてまで得たいものは何なんだろう。

いつも言いますが、なんでみんなそんなに焦っているのか。

余裕がないから話し合いが口論になって、問題が生じる。

そもそも話し合いが成立している場をあまり見たことがありません。合意形成という名の責任逃れというか。ああ、もしかしたらそうやって責任を負わないようにしているのかな。と考えると、責任を負う対象が自分の考えるものとは異なっているのかもしれません。そもそも責任ってなんだ。

昨日伺ったお話で、「空振り」という言葉がありました。聞いた瞬間に過去の出来事が頭の中にとめどなく浮かんできました。

相手が話題を投げかけてくれて、私がそれ(こちらが想定する相手からの期待)に応える。すると、そこで止まる。もしくは話が変わる。

なんというか、興味がないなら話しかけてくれなくていいし(そのほうがお互い無理しなくて済む)、興味があるなら聞けばいいのに、と思います。

話が止まると、失望感が残ります。その積み重ねによって、私は聞き役に徹するようになったのかもしれません。

聞くのも、ただただ頷いたり、カウンセリングのテクニックというのでしょうか、授業で習いましたが、あれをやられると会話になりにくいなと個人的には思います。カウンセリング手法だからそもそも目的が違うのですが、会話の場で、「聴く」を意識してその手法をとる人が多い。会話の発生の根本には、相手への興味関心、すなわち己の好奇心があります。少なくとも私はそうです。だから、カウンセリングのように相手の気づきを促すのは、会話においては聞く側の目的ではないのでは。

押し付けることも受け流すことも、会話ではない。

日常の場においては押し付ける傾向が多く、何かしらの活動や作業の場では受け流す傾向がみられます。

どちらもおかしいな。