人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

舞台転換

最近、脳の容量不足を痛感しています。何かしら思いつくと頭の中が支配されてしまい、講義中などにそれが始まると、アウトプットしない限り、人の話が頭に入ってきません。アウトプットしたらしたでその瞬間から鮮度が落ちていきます。また、違う考えが湧いてきたときは先にあったものがどんどん消えていきます。日々思いついたことの9割程は忘れてしまっているような気がします。一つ一つの考えが自分にとっては面白いものであり、だからこそ忘れてしまうのが非常に勿体ないなと思っています。

私がこうしてブログを書くのは、話し相手がいないからです。文章を書いても読み返さないまま投稿してしまうし、文章の書き方の基礎も何もありません。こんなの人様に読ませるようなものじゃない、と罵倒されてしまうかもしれません。ただ、表面的には黙っていても、頭の中の私は非常に饒舌で、一人でぺらぺらぺらぺら喋っています。饒舌な私に対して私自身は、面白い人だなあ、と思うので、誰か他にもそう思う人がいるかもしれないという気持ちで書いています。ただ、いきなり対面でこんなにお話できないし、もし相手がそう思わない人だったらもう不快でしょうがないですよね。だから文章にしようと。文章なら無理に反応しなくていいじゃないですか。愛想笑いもしなくていい。

小学校の頃に父親とニュースを見ながらああだこうだと話している時間がとても好きだったのですが、そんなことは小学校の友人とは分かち合えませんでした。だからひたすら聞き役に徹していました。人の「相談」は「相談」ではないことが多いので、聞き役の私はその点に関して重宝されていたように思います。後々父親とも話すことがほとんどなくなって、とうとう話し相手がいなくなってしまったから、先生と話していたような気がします。高校では、元々話すこと自体は好きですから、話題にしやすいこともあって恋愛関係のことをひたすら話していたような気がします。

最近よく思うのですが、私は人を好きになったことがないのかもしれません。とても失礼なことですが、自分に自信がないから人に好きになってもらうために人を好きになっていたというか。おそらく人を好きになったのではなく、自分のことを好きなだけで。なので、自分に自信をもてたというか等身大の自分を受け入れているというか何というか、現状がとてもフラットなので、恋愛に対する感情がない。でもそれがとても楽。一人だけどまったく寂しくない、依存心がない。この状態でいてもし誰か人を好きになったとしたら、そのときは本当に人を好きになるということなのかもしれません。

 

前回紹介したズーニーさんの本には、7つのキーポイントが書かれています。

①言いたいこと

②誰がどうなるのを望むか

③問題意識

④読み手

⑤自分の立場

⑥論拠

⑦根本思想

です。

自分がこのブログを公開している意義としては、

①知ってほしい(自分の思うことや感じることの提示)

②想像できる人は、知って、考えて、共有してほしい

 想像できない人は、まず想像してほしい(そういったゆとりを持ってほしい)

③考えない・物事と向き合わない人が増えていること

④②の人

⑤いろいろなラベルをちょっとずつ持っていて、だからこそ所属(居場所)がない

⑥(略)

⑦①+自分の中の「共有できない」という「つらさ(悲しみ)」

です。

昨日は人権関係の講義を受けたのですが、そこでふと思いついたことを書きます。

私は、やたらにこにこしている人とは少し距離を置きます。笑顔には本心からのものと作ったものがあります。これらの表情は脳への作用がそれぞれ異なっているため、差異を感じ取ることができます。私は作り笑顔に対して不快感を覚えます。作るくらいなら正直に喜怒哀楽を示してくれたほうがわかりやすいし、こちらとしても距離を測りやすいです。昔は無謀にも頑張っていたのですが、全員と仲良くすることは無理です。公私混同とは少し異なるかもしれませんが、全面的に共感できる人はいないので、自分と思想が一致する部分において共感し、そうでない部分に対しては距離を置けばいいように思います。一部分が一致しないからといってその人の全てが悪いとしていたら、非常にもったいない。そんな人付き合いをしていたら裸の王様になりかねない。全部を合わせる必要もない。合わないのに無理に合わせようとするから、うさんくさい感情や裏切りが生じるのだと思います。そんなんじゃ社会人やってけないよ、と言われるかもしれませんが、そもそも、うさんくさい関係なんて続かないしボロが出るのだから長期的に考えれば無駄だと思います。そんな「社会人」の気遣いなんていらない。むしろ問題が複雑化する。おかしいと思ったらおかしいと言う。表現の基本だと思います。若い子たちは、素直に「一生懸命さ」や「楽しさ」「寂しさ」などの自分の感情を全身で表現しています。私も大人になりきれないので、昔から、ばか正直でくそまじめです。昔はそんな自分がみじめで格好悪くて大嫌い(何かの歌詞みたい)でしたが、今はむしろ大事にしています。年をとるにつれて表現の「仕方」を身につけていくものですが、それが適切なのかどうかが問題です。ただ隠すのは楽だけど、自分が後々つらくなる。それにだんだん慣れて、いつの間にか諦める。考えることをやめる。それが大多数なのかな、と感じます。それでも一部の人たちは、自分の感情や軸を大切にしながら、他人を傷つけない表現を覚えていく。本来の「大人になる」の意味は後者なのではないでしょうか。あ、ちなみに感情や軸っておもいっきり非言語表現に表れますよ。

講義そのものに関しては、いろいろな制度を作らないといけないほど他者に対する余裕のない人が増えてしまったのだなあ、という印象を抱きました。人を分類することは不可能だと思います。人は一層や二層で成り立っているものではないので。それでもラベリングされることが非常に多くあります。私が「居場所がない」と感じるのはそういった部分です。どこに対しても中途半端で所属できないから。人は何かに所属しないといけないのでしょうか。私はもっと「個人」とお話したいです。いろいろな人の考えを聞いたりしてみたい。「人となり」を知りたいです。自分でもよく用いてしまいますが、安易な「多様性」という言葉に逃げずに、個性を尊重することをもっとしっかりと意識したいなあと私は考えています。

今日は若者関係の催し物に参加しました。端的に表現すると、若者支援にあたるのですが、世代という一元的な括りも活性化のためには確かに必要ですが、最終的にはきっと「個」に行き着くのではないでしょうか。先に書いたように、私は世代の括りだと浮いた存在でした。性別でもスクールカーストでも趣味でもなんでも、浮いていました。居場所がなかった。いやあったじゃん、あそこにいたじゃん、などと言われても、当時だったり自分で思い返したときに確実に「居場所がない」と思っているから、それは他者からの捉え方に左右されるものではありません。私が最近まちづくりや若者支援の活動に首を突っ込んでいるのは、過去の自分を慰めてあげたいからです。自分と同じように感じる子が一人でも減ったら嬉しい。自分がつらい思いをしてきたから人もつらい目に遭え、とはこの件に関しては全く思えません。だってこういった負の感情は連鎖してしまうから。社会の歪みの根本も結局は人間の感情であり、余裕や想像力、思いやりのなさ、に起因していると思います。自分もつらいし、つらい思いをしている子を見るのもつらい。それを見て見ぬふりして後から何か引っかかっている人を見るのもつらい。誰もが各々本音を出せる場所を持っていてほしいです。声かけそびれたけど、催し物の場において「本音が言えない」って言っていた子を私はひっそりと応援することにしました。

 

今日はいつも以上に話に一貫性がありませんが、敢えて私の頭の中の様子を再現することにしました。こんな感じで話がくるくると変わっていって、それぞれがまとまらないまま転換していきます。すぐに書きとめられるように、iPadとキーボードを持ち歩こうか悩みます。メモでは手が頭に追いつかなくなってきました。