人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

固執

選考ラッシュが終わり、良くも悪くも非常に気が抜けています。テストセンターというものを初めて受けたのですが、気が抜けすぎて全くできませんでした。

街の中心部を通ると、最近はよく政治活動団体を見かけます。暑さによってアトピーが悪化しており、目も開かなかったりでなかなか身体的に負荷がかかっているのですが、世間の流れは私を精神的にえぐります。いつの間にか蝉が鳴きはじめています。季節の変わり目がきているのに梅雨の遅れによって気づかないのも、なんだか奇妙です。

就職活動が終わったわけではないのですが、世の中への恨みつらみを論文にのせて提出したので、振り切れてしまったというか。「就職活動」という言葉への囚われが消え去った感覚です。それはおそらく選考の場において素を出せるようになったからだと思います。

社会が嫌いだ嫌いだと言いながら、私も立派な「就活生」になっていました。志望先こそ極々少ないものの、黒のスーツを着て、パンプスを履き、リクルート用鞄を持ち、メイクをする。選考通過を待ち(親からの連絡で気づくことばかりでしたが)、選考のためにキャリアセンターに通う。

我ながら恐ろしいですね。社会に飲み込まれるとはこういうことなのか。

 

気が抜けた今になって少し思い出したことを書きます。私が大学に固執し、企業に入りたくないと思っている理由にもあたります。

昨年の夏、私は精神衛生学特論という講義を受けました。そこで精神科医の先生と知り合い、精神保健福祉士になりたいと考えている、という旨の話をしました。その先生から数冊の教科書と新書、加えて一冊の漫画を紹介していただきました。その漫画が、今の就職志望先に興味を持つきっかけでした。

その漫画は、「健康で文化的な最低限度の生活」という本です。

 市役所でケースワーカーとして働く新卒職員の話です。いろいろな方に勧めているのですが、目を逸らしたくなる、それでいて身近に確実にあるさまざまな生活が描かれています。スピリッツかなにかで連載されていると思うのですが、スピリッツやモーニング、アフタヌーンといった雑誌は面白いですね。他にも「コウノトリ」とかちゃんと読みたいなあと思っています。

ケースワーカーの話になると、もう「就活生」の私の言葉になってしまいます。なので、精神保健福祉士を目指そうとしたきっかけについて書きます。

精神保健福祉士は、個人的な理解としては、心療内科や精神科において患者さんの受けられる制度に関するケアをする、加えて、稀に(相性が良ければ)カウンセラーの役割を担うことがある職業です。精神科医の先生もそのような見解だったように思います。

私は現在の大学にきて、学部1年の頃から大学院への進学を決めていました。理系である限りは進学が「当たり前」だと思っていたし、その頃に、自分の経験と管理栄養士の知識を活かした仕事をしなさいと言われたからです。言われたからそうしようと思ったわけではないのですが、そういった活かし方があるのか、と考えるきっかけになった言葉でした。

管理栄養士の役割を学ぶにつれて、その対象はあくまで健常者である、と感じるようになりました。学生にも教員に対しても、「義務教育」のようだ、という印象が強くありました。義務教育、という印象を上手く言葉にできないのですが、本来存在している多様性を健全という力を用いて暗黙の了解の下に潰している、という雰囲気です。伝われ。

私が中学生の頃に憧れていたのは「大学生」でした。大学生になれば、日常においては群れることなく個々が勉学に勤しむのだろうと思っていました。私が持つ大学生のイメージは、学生運動などはさておき70年代やそこら、少なくとも今自分が持つイメージとは全く異なるものでした。

高校生になると、そのイメージがだんだんと崩れ始め、それでも偏差値が高ければ前述のような雰囲気なのだろうと思っていました。私が以前の大学を辞めた理由の一つはそのイメージの崩壊で、その頃から大学とは何なのか、といったことを考えるようになりました。少数には他者がどうあろうと関わらず自分の学問への意欲を昇華している人もいましたが、辞める前にはそれには気づかず、また、自分にもその強さはありませんでした。

そうして再入学した大学で義務教育を受けるのですから、それはもうつらかったです。ただ、学問は自身の体験に直接的に関わっていましたから、それだけが救いでした。

私は、健常者かそうでないか、と問われたら、そうではないのかもしれません。健常者という括りも雑すぎてよくないのですが、私は以前まで自分の考えが他者と相容れないことを「おかしい」と思っていたので、「おかしい」を病気のせいにするために、心療内科でわざわざお金を払って病名を貰いに行っていました。だから私の「おかしい」に対する不安は薬では全く拭えない。それでも病気があれば便利だから、病気がないと自分のアイデンティティを見失ってしまうから、病院に通い続けました。

私以外にもそういった人は多いのではないかと思います。最近のメンヘラブームに対してそのように感じます。オタクがブームになったときにも同様な違和感をもったのですが、ファッションなんだなあと。サブカルブームがその発祥でしょうか。もはやよくわかりません。今や「好き」だけじゃ許されないのかなあと。ファッションのように扱われるということは、流行り廃りがあるということで、かつ声の大きい人たちが一時的に流入してきて、荒らして、去る。元々そこにいた人たちにも、声の大きい人たちの残骸が降りかかり、偏見を持たれる。メンヘラブームに関しては、苦しみの表現の手段を失う感覚があります。リストカットが「おしゃれ」。グロテスクなのが「かわいい」。でもきっと、誰もがそうやって人との差異を見つけて居場所を作りたいのだろうと感じます。みんな好きにやればいいのに。誇示する必要がないのに。

メンヘラブームに関して特に懸念しているのは、過食嘔吐をファッション感覚でやることです。私自身も摂食障害(吐きません)ですが、これは本当に脳がおかしくなります。摂食障害に関しては、社会は見た目を重視しているという点と、加工食品の増加が大きく関与しています。服を美しく纏うにはスレンダーであることが必須になりました。日常生活において、お菓子が食事になるようになりました。スレンダーであることとお菓子を食べることは反しています。女性の多くは痩せるためのダイエットをします。食事制限をします。我慢我慢。我慢。ストレス。ストレス。まあこれだけ我慢しているから一つくらいお菓子食べてもいいよね。食べよう。食べよう。もっと。もっと。足りない。足りない。

文字にすると狂気しかないのですが、本当にこんな感じです。以前も少し書きましたが、甘味は旨味と拮抗し、甘味は脳の報酬系を刺激して依存状態に陥ります。痩せると食べるをどちらも満たすには。はい、摂食障害の出来上がり。

私は自分自身が摂食障害を経験していることと、一応栄養や生理学を研究しているのでその知識があること、また、根源にはメディアによる印象操作や食品業界の介入、利権関係等が蔓延っていることへの認識、それらがあったので、管理栄養士として(現状ではまともなデータがない)精神保健の分野において研究データを出すべきであると考えました。それこそが自分の経験と知識を活かした仕事ではないかと。

大学院に残り、大学で研究を続けたい、企業に就職したくないと考えたのはそんなことからでした。ただ、卒業論文を書いたことでわかったのは、理系で研究をすることは、新しいものを見出すことである、ということでした。私がやりたいことは、生理学等の知識を用いて保健学の分野で研究をすることだったのだと思います。ただ、大学院の試験がすでに終わった後にそのことに気づいたのでそちらは諦めました。別の道を考えたときに、心療内科への就職を思い浮かべました。しかし、まず管理栄養士としての心療内科や精神科への就職はありません。あるとしても献立作成ばかりです。なので、精神保健福祉士を取得したいと考えました(やっと話が戻ってきた)。

そんなこんなで今に至るのですが、(散々忘れていましたが)データを出すことは今も諦めていません。就職してもなんらかの形で保健学もしくは社会学の分野において大学院に再度入りたいというのはずっと考えています。精神保健の分野で食関係のデータを出すのは、簡単に言えば社会の闇との対峙です。営業妨害ですから。それでも私は(誰しもがわかっているけど見ないふりをしている)データを出すことに意義があると思っています。なぜなら、このまま現状が進んでいくと、菓子もストレス緩和に大事だよね、とありながら、一方では死にかけているという状態になるわけですから。甘味が危ないよ、マイルドドラッグだよ、という論文が出ていつつも、グルコースは脳の唯一の栄養源だから砂糖は大事だ、というのは論点のすり替えです。「砂糖」は本来必要ないし、グルコースは炭水化物からとればいいし、そもそも甘味を欲するのは、古来において果物からビタミンやミネラルを摂取するために味覚が発達したからですし。

このままだと、人間はどんどん骨がスカスカになって、そんな人間から産まれる子どもたちは身体的もしくは精神的に機能不全になる可能性も大きくて、食生活もお菓子で生きてきた親たちですから、まあ伝承しますよね。人間滅亡するんじゃないかなって思います。

以前も書いたように、食(育)の格差もなかなか危険です。過激な言い方をするとしたら、一種の人殺しかな。

誰かの利益のために、誰かが苦しむのって嫌なんですよね。全員が全員苦しまないことはありえないですが、見て見ないふりするのが嫌なんです。ずるいじゃないですか。

見て見ないふりができたら楽なんだろうな、と思うことは多いですが、できない。できないならじゃあどうするかっていうと、結局不器用に泥臭く生きていくしかないんです。昔はそれを認めるのがつらくてつらくてしょうがなかったけれど、そうするしかないんですよ。