人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

ごく普通の健全な生活

 ここ2日ほど非常に調子が良い。「調子が良い」の定義は人によって異なるが、私の場合は、くよくよ悩まずに作業をこなせる精神状態にあることに加え、生活リズムが整った場合において「調子が良い」と感じるようだ。

 厚生労働省などの提言においてもよく見るのが「生活のリズムを整えましょう」という文言。調子が悪いときはやはり生活も乱れている。じゃあ調子が悪くなったら生活を正せばいいかというと、それはもはや手遅れだったりする。そのときには正す体力も気力もない。いやいやそんなの簡単でしょ、という人は尊敬する。乱れ始めたときにきちんとそれを感知できているのだろう。そういう人はこまめに修正することで規則正しい生活をおくることができる。感知能力が鈍い人は、自分の作業負荷の限度やら閾値やらが掴めないために、いつの間にかストレスがかかりすぎてしまい、自分を壊すことになる。私はこのパターンだ。他人のことは察しすぎるほどに読み取れるのに、自分のことはてんで読み取れないらしい。もしくは、「いいこ」でいたいがために気づかないふりをしているのかもしれない。

 負荷がかかると、どんどん自分を犠牲にする傾向がある。痛みを以ってして痛みを制するとでもいうのか。心が先か、体が先か、悪循環に陥ってゆく。そのときにはもう「生活のリズムを整えましょう」なんて、聞いていられないのだ。

 調子を整えるものは、環境であるように思う。体の調子が悪くとも、環境が良い場合は作業が捗る。気持ちも上向く。そうすると、食事や睡眠に気を遣う余裕ができて、体の調子も整ってゆく。好循環だ。

 ここ2日間の自分を例とすれば、目標とタスクの明確化、適切な作業負荷がある。毎日のすべきことが把握できているために、それに適した生活リズムを形成できている。できれば本を読む時間が2時間はほしいが、今は論文執筆が唯一最大の作業なので、それをひたすらこなす。予定通りにタスクをこなす自分に充実感を抱く。ほどよく集中し、息抜きもきちんととって、生活にメリハリがつく。怒っている人を見ても愚痴を言っている人を見ても、無駄に自分を責めたり巻き込まれたりすることなく過ごすことができる。これはとても健康的だ。

 書き出してみたら、他の人にとってはもしかしたらごくごく当たり前の生活なのかもしれないような気がした。責任のない学生生活は自堕落だ。

 調子が悪いなと思ったら、自分を責めるよりも環境を見直してみるのがいいのかもしれない。環境に縛られるのではなく、適度に自分好みに変えてゆくのが健全なように思う。難しいけれど。

打ちのめすし打ちのめされる

居酒屋は四方八方から声が聞こえてくるから頭が痛くなるな。集中して聞こうとしても、いつも以上に聞き取れない。普通の人はみんな聞き取れてるのかな。体調のせいだけじゃないよな。みんなは飲み会を楽しいものと思ってるのかな。私は人数が多いと息苦しくてしょうがないよ。来なければよかったな。帰ると雰囲気悪くするって怒られる。いる意味が全くわかんないんだけど、帰ることも暗に許されない。一滴も飲んでないのに人酔いしてる。吐きそうだなあ。

楽しくない話。相手の枠組みで語られる私の将来。くそつまらん常識の中の話。あなたにとっては常識をぶち破ったのかもしれないけど、その話は私にとっては常識の範囲内に聞こえるんだよ。つまんない。普通。ありきたり。

最近は人と喋るより本を読んでるほうが楽しい。音楽聴いてるほうが楽しい。頭の中で想像する世界なら、常識をいとも容易く超えていける。縛られない。足枷もない。それは必ずしも明るい未来だけを描くのではなくて、汚い部分も、美しい部分も、現実よりはるかにはるかに美しい。曖昧なものも美しさにフォーカスすれば、それは輝きを増す。普段、誰しも見過ごしてゆく部分だ。私だけが見ることができる、宝物だ。譲る気はない。負けない。脅かすことは許さない。

1日の4分の3は寝た、疲労回復はしなかった

大人しいADHDだと言われてからいろいろと調べてみると、どうもADDに当てはまりそうだ。多動性に関しては、常に小さくごそごそしているが、席に着いていられないだとかはない。アスペルガー自閉症は、発達障害としての共通傾向はあれど、ルールが厳しくなるとミスが増えるので、当てはまらない。感覚過敏は今もあるけれど、これはおそらく共通傾向。
今日も、会計を済ませていたら後ろに並んでいた女性の距離が近くて、臭いで吐きそうになりヒールの音や声で頭が痛くなった。触れられているわけではないのに、音や感覚で距離の近さがわかって鳥肌がたった。横は案外平気だけど、前や後ろに立たれると怖い。目測で80cmくらいの距離にいたと思うので、混雑した空間でもないのに個体距離に入ってしまったのが苦痛だったんだろう。
マスクとサングラスをよくしているけれど、ふいに撮られた写真があまりにも不審者で、どうしようかと迷っている。通学時は加えてイヤホンに日傘だ。最近は日差しが強いので目が痛い。マスクをしなければ不審者度合いが下がりそうなものの、マスクの防御範囲は広いので一番外せない。外出しないのがいいんだけど、そうもいかない。困った。
いろいろと気兼ねなく生きたいものの、そうは問屋がおろさない。
部屋にいると踊ったり歌ったりできる。踊るといってもストレッチとコンテンポラリーダンスの中間みたいなもので、好きに身体を曲げているだけ。歌うのは声が元々小さいのでほとんど聞こえない(はず)。服もきちんとしたものを着なくていいし、姿勢だってぐにゃぐにゃだ。暗闇の中で作業をしたって誰からも怒られないし、自分のペースで進めることができる。水を飲みながら本を読めるし、寝落ちすることだってできる。音にも臭いにも光にも視線にも、苦しまなくて済む。
ADHDは砂糖と添加物に相関があるらしい。タール色素と亜硝酸ナトリウム。菓子類アウト。ワンアウト!ツーアウト!スリーアウト!ADHDっておそ松さんの十四松を想起させるんだよな。おそ松さんは頭空っぽで観れるからいい。アニメもドラマもあんまり観ないけど、おそ松さんは珍しく観てる。タール色素は少し前にキュレーションサイトでも話題になってたと思う。キュレーションサイトの記事のタイトルってなんであんなにイラッとするんだろう。砂糖も添加物もどちらの影響もあるだろうけど、それ以上に
お菓子を食べると味覚が死にゆくのでどうにかしたい。そもそも美味しいとは全然思わないので食べるのをやめたい。歯固めや代替的自傷行為のために加工食品を買うのをやめたい。食べた後に口の中がなんとも言えない変な味と痺れが残るのも炎症が悪化して寝られなくなるのも、わかっていて食べるのは依存症以外の何物でもない。
自分の身体の場合、拳一個分の量を食べれば本来は十分お腹が膨れるんだけど、胃がバカになってるからちゃんとホルモンを分泌してくれない。分泌してるとしたら受容体がバカになってる。治れ。

散らばっているから拾っているだけのこと

 何を考えているのか、と聞かれることが増えた。見下すニュアンスではなく、興味対象として。私にとってそれは嬉しいことだ。自分が他人のそれを知りたいと思っているから、その感覚がわかるゆえに、嬉しい。

 

 何を考えているんだろう。考え方はとにかく無秩序だ。気になったものがあればどんどん目移りしてしまう。だから、考えたけど忘れたものもたくさんある。私は、それらをもったいないなと思ってしまう。だって、興味が惹かれるんだから、それはきっと面白いことだったんだ。嫌だな、気に入らないな、と思う物事の引力は強いのだ。いいな、好きだな、は通過しやすい。その違いは、変えなきゃ、と思ってしまうこと。自分が主体になると、どうしても頭の中がそれでいっぱいになる。だから、嫌なものが気になってしまう。好きなものはピークが一瞬で過ぎ去ってしまう。

 好きなものや面白いことで自分の周りを埋め尽くしたいので、そのためには変えないといけない。変えるの対象は、自分でもあり、自分にはどうしようもないものはそれ自体になる。最近は、嫌なものの変え方を、楽しいと思える方法でやっている人に出会えたので、それがとても嬉しい。

 そう、こんな感じで話の軸が変わっていく。これまでの文章もだいたいこうなんだけど、私の中では連続している。何を考えているか、という問いの直接の答えは出てないんだけど、そのそばにあるものが気になって話が変わる。でも、いつの間にか戻ってまた考えている。その繰り返し。これはミツバチの8の字ダンスに似ているなと思う。花の近くにたどり着くと、8の字を描いて飛び回る。今はここの花や花の肢について考えよう、明日はきっと違う花が気になるんだろう。

 

 ゆっくりと考えるには、今はあまりにも情報量が多すぎる。道一つ歩くだけでものすごい情報量だ。昨日はとても空気が澄んでいた。ちょっと痛いくらいに寒く、その分空気も、空自体も、とてもきれいだった。そういう日は大抵星空がきれいなので、斜め上を見ながら歩く。オリオン座の下のやつはいつ爆発するのかなあと考える。クラムボンの2010というアルバムが大人しい星空と相性がいいので、聴きながら、歩くテンポをBPMに合わせてみたり2倍速にしてみたりすると、だんだん踊りだしたくなる。昨日なんかは、家を通り過ぎて、誰もいないところで少しだけそうしてみた。一歩間違えれば不審者で通報されてしまう。それでも、私は、そうしてみた。

 少し前に、「大人しいADHDみたいだな」と言われたので、いや自分はADHDではないと思うけどな、と思いながら調べてみた。そうしたら情報が少しアップデートされていた(http://adhd.co.jp/kodomo/#!naniga_symptom)。前よりもずっとわかりやすく、その対象は広がっていた。前は多動性・衝動性を強調しすぎるくらいに強調していたけれど、不注意もそれとされていた。今の社会ではわかりにくいから、潜んでいて、それでも何か普通にできない、なんだこいつ、と思われるのは、たしかに不注意のほうだ。不注意の群だと、忘れ物はしないし物もなくさないけれど、気が散りやすいことや集中しすぎることはまさしくそうだ。多動性・衝動性の群だと、乱暴ではないけれど、体を動かすことはやめられない。小さく、見えないように動かしている。とっても我慢している。大人しい子だと思われているけれど、とっても我慢しているのだ。小さい頃は手のかからない子だと言われていたけれど、我慢しているだけだ。我慢を解放していいときはなんとなくわかっているから、人の目がないところで、ひっそりと踊るのだ。

 今は、誰でも病気になることができる。想定外のことをしたら、「あいつは病気だ」。昔はそれが冗談の範疇だったり、ひどいところでは暴力の対象だったが、それが本当に病気になってしまった。はたしてどちらがよかったのだろうか。

 

 みんな怖いから、自分の身を守るために、線をたくさん引く。そうして、自分だけの居場所を作っていく。その線を辿ることで物事の関係性が見えてくるよな、と思うくらいには線があちらこちらにある。

 範囲を小さくすれば、考えやすい。物事の根本のパターンは案外数が少ないと思っている。あ、あれはこの前のあの話と同じ構造だな、と思うことはよくある。小さいと考えやすいが、小さくしたという自覚がないとまずいだろうなとは思う。

 線を超えて反対側から眺めてみたり、それを結ぶ頂点を見てみると面白い。頂点から見れば一次元、線として見れば二次元、立体として考えれば三次元だ。それ以上の次元はよくわからない。立体の時点で数学ならギブアップだ。役に立つのはとてもわかるので学び直したい。

 今ちょうど画面にぼんやり自分の影が写っているけれど、髪の毛が跳ねるのだって三次元じゃないか。くせ毛に関して言うならタンパク質の複次構造が問題か。

 

 何を考えているのか、という問いに対して、ぼんやり思ったのは、構造を無意識に模索してはいるかもしれないということ。それで、似ているものを分類していく。

 本当はそんなのは後付けにすぎないんだけど、最初に好きか嫌いかがどん、とあって、その後に理由を考えてみれば、勝手に分類してる気がする。

 人について考えるとすれば、その人は何のためにそれをするのかとか、そこに至る過程とかを見ていると思う。その人の出した成果にはあんまり興味がないというか、もちろん話を聞くきっかけとして打ち出されるものは成果の部分だから興味がないわけではないけれど、何に注視するかと言われたら、きっかけとか過程とか、どちらかといえば入り口の部分。成果とか方法とかは、環境とか考え方で変わるというか運の要素もそもそも強いからあんまり興味がない。絶対の方法なんてないし、真似するのはいいしやるべきだと思うけど、違う環境で同じものを丸々導入したって、その考え方の根本がわかっていなければ違うものになるわけで。

 話を聞いてみて、最近だったら、この人の考え方は自分と似てるなとか違うなとか偉そうに勝手に判断して、似てるときは自分とその人の考え方の違うところを探してみて、あ、これがあると良さそうだな、と思うことは取り入れてみる。あとは、似てる似てない関係なく、次の環境でこれはやれそうだな、とか、あの場所だとこういうことが起こりそうだからこれはあかんな、とか、そういうことを考えている。それは、自分が嫌な環境だったら変えたいな、と思うから、その予防線として考えていること。単純な興味の部分としては、なんでこの人はこれがやりたかったのかな、とか、きっかけが分かれば、その場所に自分で行ってみたいと思ったり、現実的に無理そうなら自分だったらどう思うのかなっていうのをシミュレーションしてみたり。この出来事がその人にとっての起点だったのかなとか、勝手にいろんなことに思いを馳せている。脳内なら自由だ。

 

 私は、中学校まで(と書こうとしたら今現在も継続中だとは思ったのだけど)、将来の夢がころころ変わる人だった。一番最初は何だったろう、花屋さんかケーキ屋さんか、よくあるやつだ。歌を歌いたかったし、曲を作りたかった。絵を描きたかったし、文章を書きたかった。デザインの仕事もしたかったし、服も作りたかった。鞄や帽子や靴、時計、それらに限らずものを作りたかった。カフェもしたかったし、本の仕事もしたかった。教科書も作りたかった。音楽療法にも惹かれたし、アスレチックトレーナーにもなりたかった。医者にもなりたかったし、青年海外協力隊にも行きたかった。カウンセラーとか養護教員とか、話を聞くこともしたかった。お坊さんになりたいと思ったこともあった。大学というものに憧れて、「大学生になりたい」と言ったこともあったし、その先の研究にも憧れた。思い出せないものもあるが、職業名を出せば、優に20は超えるだろう。熱しやすく冷めやすいと指摘したのは、小中高と一緒に上がったあの子だった。

 たしか中学校の頃だったと思う、自分で作りたい建物の絵を描けという授業だったか。それを全部詰め込んだ建物を描いた。

 欲張りだろうか。

尸がほざく

「いや、おかしいやんそれ」って思うものがたくさんたくさんあって、それを指摘してみて、賛同を受けることがあれど、その後に無力感が蓄積してしまう。
結局相対するものが自分からすると大きすぎるもので、権力とか構造とか、そんなものものには立ち向かうことなんぞできない。
結局自分がここに居続けるわけではないということが、手足を止める大きな要因なのだ。
腰を据えて何かやろうと思えない。どうせいなくなるのだから。
そういう循環を繰り返して、何もできなくなった。
失敗を恐れる必要はないが、失敗することによって信用を失い、拒絶されることはよくあることだ。
失敗することが怖いというよりも、その背後の拒絶が怖いのではないだろうか。誰しも。
今は余裕がないのだ。
経済的余裕がなくなると、人のことを考えることなんてできなくなる。
そんな人たちの攻撃性は、経済的余裕がある人たちの精神的余裕に向かう。
巻き込みあって、誰しも余裕がなくなる。
自分ができないことをやっているやつがいる、それだけで攻撃したくてたまらない。
足の引っ張り合いが至極単純で、自分にもできることで、手っ取り早いから、そして相手をこき下ろすことができるから、そんな歪なコミュニケーションを楽しむようになってしまった。
そうした社会が生きやすいわけなんてなくて、塞ぐ。目を、耳を、口を。
ある人は息絶え、ある人は誰も頼れずに泣き、ある人は極限状態に陥り、ある人は全てを放棄する。

「思い通りだ」

元々身体が弱いのか、はたまた弱くなってしまったのか、最近は立っているだけ、ときには座っているだけで吐きそうになることがある。
横になっていると、パソコンに触れない。本も読めない。
そうしてスマートフォンに依存する。
嘘か真かわからない情報の海で、自分はその広さに対して万能になった気がする。
他人が作り上げたにすぎない海を、自分が見つけたかのような顔をして。
そこから塩を精製するほどの努力もしないで、「どうだ、すごいだろう」と言う。
知らないものに対しては、「わーすごい」と言われる。
その後に、焦燥感に駆られる。
何もないのだ。

作られた枠の中で泳ぐだけ。
私は枠に触れられない。

せめて、本を読むことができれば。
せめて、今やるべき作業をこなすことができれば。
頚椎に負荷がかからなければ。
狂った神経伝達が生じなければ。

普通に日常をこなすことができて、たまに褒められて、たまに叱られて、そんなふうに成長できたかもしれないのに。

怠惰かな。

今の場所を自分の場所と思うことができないので、環境を整えようとまでは思えない。
自分の場所が過ごしにくいのは気に入らないので、手を加えて整える。
もちろん失敗するのでその都度直されて、変わっていって、どうにか形になる。
そんなふうにしていたいだけなのに。

腐れども、腐れども

必要なことはやるべきだと思う。面白いことはやりたい。
必要のない面白くもないことを惰性でやるのはものすごく嫌い。
それをやる意味は何なのか、それをどうしてやりたいのか、そもそもそれはやらないといけないのか。そういった部分がなおざりにされてるイベントって、話聞いてても全然楽しくないんですよね。というか、喋ってる人がまず楽しくなさそうに見えちゃうし。主催側が必要性や楽しさを真剣に感じてないものなんかやる意味ないと思います。来てくれる人たちに失礼だ。

資格とか規制とか組織とか、何か新しいものを作るときには、それを作るだけのエネルギーがあって成し遂げられるものだと思っているんですが、そうじゃないんですかね。惰性とかお金のためだけに作るとしたら、結局それだけの影響力にしかならない、というか歪んだ影響を及ぼすからむしろやめてほしい。
北欧ブームなのかたまたま今の環境が北欧を好きな人が多いだけなのか知らないけど、何でもかんでも取り入れるのはどうなんですかね。取り入れるならその本質を考えて今の日本にどう影響を及ぼすかとか、そもそも既存の制度を変えて代替できないかとか、取り入れるとしたら何を大事にしないといけないかとか、いっぱい考えることがあるはず。で、その作業ってものすごく重要で、ちゃんとできてないと出てくる言葉も薄っぺらい。ちゃんと考えてるとしたら、言葉に熱意が感じられるのが普通。難しい言葉でごまかさなくてもその意味を言えるだろうし、淡々とした語り口でもちゃんと伝わってくる。
何でもかんでも作ればいいってものじゃないし、それは目に見える大金が動くハコモノについて主に言われるけど、そうじゃないものでも同じことだと思うんですよね。

やるなら何でも楽しくやりたいじゃんね。無理して熱くなったり、そう振る舞ったり、ふざけたりするのは好きじゃないけど、やってるうちに楽しくなって真剣になっちゃった、っていうのはとても自然だし、自分が真剣にそれを必要だと思ったり好きだったりするなら、そういうのが見えるものだと思うんだけどね。
形式とか肩書きとかそういうのめちゃくちゃどうでもいい。それにがんじがらめにされて楽しさが消えるのはとてももったいない。

何も難しいことは言ってないと思う。楽しいことや必要なことはやればいいってだけなのに、なんでそれがこんなにも難しくなっちゃってるのかが不思議でしょうがない。お金のため?そんなに莫大なお金が必要なのか?本当に必要とか楽しいとか思ってるなら国とかに頼らなくてもわかってくれる人たくさんいると思うんだけど。価値と費用がミスマッチならそりゃお金も動かんよ。お金ばらまくなんて一時的な作用にしかならんわけで、一見大金が必要なことでも工夫次第で削減できることってたくさんある。効率化すれば本質もやっぱりある部分で希釈されてしまう。

丁寧にやることに対して手を抜いて、いい事業なんてできるわけないと思ってる。自分ごとじゃないから口出す権利なんてないわけだけど、クズの自分をとりあえず置いてくれている大学なので、腐らないでほしいなと思う。真剣に考えてるから怒ったり泣いたりするわけで。どうでもいいものに対しては何も思わん。

知れ、社会は美しい

Facebookに載せたものを覚書としてこっちにも貼っておきます。

 
 
ハートネットTV観てました。寝て起きたらやってたので途中からですが。
 
摂食障害について。関連としていじめのことも。
 
難病であること、いろんな症状があること(嘔吐、非嘔吐、拒食)、励ましによって悪化すること、心理的な要因が背景にあること、自傷行為の代替や併発となりうることなど、とても丁寧に解説していました。
解説者は自助グループNABAの方。
自助グループにいると世間は案外捨てたもんじゃないと感じる」と、自助グループの意味についても少し触れつつ。
WEB連動企画としてtwitterの投稿を流していたのですが、その中では「生きづらさ」や「死」を仄めかす言葉も多々あり。ちなみに、質問してた人がいたのですが、摂食障害で体重が減った人と体質で体重が少ない人の違いは、一概には言えないけど、遺伝子や腸内細菌の違いが主でしょうね。お腹壊しやすい人と健康な人が同じ体重でガリガリだったら、体内の栄養を吸収する環境が体重に適応できていないのが後者であり元々の生体機能をがくんと抑制させるために命の危険を感じる、ということだと思っています。
こんなに大変な病気だと思わなかった、といった感想も多々ありました。でも、そういう人たちがこれを見てくれてよかったなあと思いました。今までだったら、嘔吐と拒食しか扱わないものが多かったし、とにかく拒食ばかりが取り上げられていたので、それによって余計に自分を責める(=自分は怠けている、摂食障害ではない)人もいたと思うんです。普通の人が摂食障害になったり、ましてや知識のある医療職がなることも多い、と明言してくれていたので、もっと多くの人が、「あれ?普通じゃないかも?」と気づいて早く医療機関にかかれるといいなと思います。
摂食障害は数十年続くこともザラなので、かかる費用が尋常じゃないです。私は食費にほぼほぼ全ての生活費を注ぎ込んでいました(今でもまだエンゲル係数は高い)。借金してまで過食する人もいます。
自分の身体のためだったり、精神のため(食事をしておいしいと感じること)だったり、そういったもののために食費を使っているのならば健全だと思いますが、自分の身体を痛めつけて、精神をボロボロにして、結局栄養は全て排出してしまう、という悲しいお金の使い方を摂食障害の方たちはしていると思います。少なくとも自分はそうです。そのために、他のものにお金を使えなかったりして(交友費や趣味)、どんどん人間関係も狭くなってさらに追い詰められるという悪循環。はたから見れば、バカじゃん(笑)、と思って当たり前というか。
 
アル中やパチンコ、煙草、ドラッグ、セックス、最近だとSNSソーシャルゲームなど、そういったあらゆる依存の一種だと私は考えています。実際に、摂食障害(研究対象は砂糖)では脳内の側坐核という部分が反応する報酬系という回路を(ドラッグと同様に)刺激するというデータも出ています。
お酒や煙草でもそうですが、食事は誰でもやることなので、だからこそ無理解な面があると思います。自分は普通に食事が摂れるけど、なんであなたは我慢できないの?みたいな感じで。そういった場合、食事を行為として切り取って考えることの無意味さがあります。本来は、栄養を十分に吸収すれば身体が満足して(胃袋が拡張した時点でホルモンや神経の伝達によって脳に働きかけることで)食事を止めることができますが、精神的な飢餓が自律神経の正常な働きを阻害しているので、神経がきちんと働かないことで過食したり、逆に全く食べれなくなったりします。(これはあくまで自論なのでちゃんと研究したデータはありませんが、私自身に関してはこういったメカニズムが働いていると思います)
なので、常々申し上げているように、一見して同じ行為(食事)であっても、個々人に応じてその意味合いは違うんです。それというのは、神経などの見えないものの影響を受けているので、理解が難しい。しかも、当人が感じている、生きづらさなどの神経に影響を及ぼしている経験について、周りが共感できなければなおさら理解は得られない。
 
生きづらさが蔓延した社会に(良くも悪くも)なったので、摂食障害のより広義的な部分について放送できたのではないかと思います。
昔に、精神疾患のある人を「異物」として隔離していたときのような「腫れものを扱う感じ」を摂食障害に対してずっと感じていましたが、うつ病が理解されてきたように、摂食障害についても社会が受け入れようとしつつあるのかなと感じました。
 
知らないものは変なもの、じゃなくて、知らないものは知ってみよう、と何に対しても思えるような人が少しでも増えてくれたら、もっと社会は面白くなるんじゃないかな、と思います。そのために(というよりも元々好奇心旺盛なだけですが)、私がまずみなさんの興味あることに首を突っ込んでいきます。みんな、自分のことを理解してもらえたら、相手にも興味を持つんじゃないかな、って思うので。草の根運動頑張ります。
 
(追記)
ちなみに、なんで摂食障害精神疾患なども含めて)があんまり理解されてこなかったかというと、理解できる研究者が少ないからじゃないかなって思います。なぜなら、心の測定ができないからです、個人差が大きすぎるから。あと、当事者じゃないとわからない感覚は絶対にある。すごく繊細な部分。共感ではなく、自分が感じる、じゃないと絶対にわからない部分です。私は、当事者や当事者ときちんと接している、かつ、研究できるスキルのある人が研究を進めていかないと、無茶苦茶な理解しかされなくて、患者が増える一方だと思います。社会的な要因、心理的な要因、医学的知見、栄養学的知見を兼ね備えていないと厳しい。もしくはそれらの分野の専門家が当事者と関わって協力していかないと無理。で、当事者や支援者は、自分の生活や支援活動で手一杯になることが多い。だから、学術がどうしても遅れる。そんな訳で、遅いんだと思います。まず、生きづらさを主観的に捉えてしまう人は、生活がままならない。研究はものすごく体力勝負なので、そういった分野で当事者が生き残るのは、経済面も含めて難しい。
そういった意味で、生きづらい人が増えた社会について「よかったな」って思っています。
ちなみに、私は、摂食障害アトピーなどのいわゆる自律神経失調症を要因とした症状に焦点を当てて神経などの生理学の立場から研究したかった人です。お金がなくて学生続けられないのがやっぱりまだ悔しい。あと、理系は本当に数字出さないと認めてもらえないので、社会学ないし社会心理学からなら、私が想定していた研究が成立するんじゃないのかなってチラホラ思うところもありますね(今さら)。社会人になっても論文は書けるらしいので、悪あがきはしたいな。
 
あーもうだめです、この分野喋り出すと止まらない。えっと、感情にフォーカスしすぎても、身体のデータにフォーカスしすぎてもダメなんです。データばかりを見てたから患者が増加しまくる現状になってるのですが、その一方で、データには当てはまらないけど症状はあって自分はこんなにも苦しい、だから医学はクソ!現代医療はクソ!という乖離が生じているんです。ホメオパシーが流行るのもその一端じゃないのかな。
だから、大事なのは中立な視点を常に持つことなんです。いつも私が口にするホメオスタシスもその文脈で使っているんですが、どっちに偏っても(ないし複数の場合はどれに偏っても)、絶対に理解はできない。何かしらのエラーが生じるんです。身体が健全である状態がホメオスタシスとして中立に位置するように、思考も常に自分軸を持ちつつ中立でいないと、堕ちるんです。
持論では、腸神経伝達と脳の報酬系活性化で身体的な説明はできますし、後天的に遺伝子発現が変わるというデータもあるので、それを応用して補足することはできます。だけど、それだけでは摂食障害は治らない。当人の語りを丁寧に追うことが必要で、その根本を見つけて考え方を変えるなりなんなりしないとどうにもならない。考え方を変えるのは簡単にはできないし、言われてやれることでもない。併走した支援がないとなかなかに難しい。対人関係(主に親との関係、機能不全家族や毒親と言われるもの)に根付いた症状なので、身体だけを見てどうにかなる話ではない。逆に、経験だけを見てどうにかなる話でもない。両方にきちんと対処しないといけないんです。それができる人はほぼほぼいないから、しょうもないビジネスが参入してきちゃってるんです。お金も精神も消耗し尽くしているのに、藁にもすがる気持ちで治す方法を探して、カウンセリング1回5万円!電話30分1万円!とか書いてあったときの絶望、わかりますかね?カイジの心境ですよ、本当に。だから、心身の適切な治療をちゃんと提示していきたいんです。納得がいかなくとも、せめて受け入れられる知識に当人たちがたどり着けたらいいなって思います。私も、私にやれることをやっていこうと思います。
 
あ、社会問題で近頃痴漢などの性犯罪(それに関連したフェミニストの運動なども台頭してますね)がたびたび話題になりますが、これも依存症の問題の一端だと思っています。私は、被害者のケアはもちろん大事で最優先ですが、加害者のケアないし治療も必要だと思っています。「なんで犯罪者を税金で治療するんだ!」みたいな意見もありますが、大事なのは犯罪のない社会にしていくことだと思うんです。なんでそういった犯罪が起こるのかを考えれば、対症療法じゃなくて原因療法が必要になると思うんですよ。で、犯罪って大半は何かしらの原因がありますよね。そうでなければ、犯罪だらけで今頃社会は成り立っていないと思います。だから、その原因をどうにかしないと。摂食障害で、一部に窃盗を繰り返す方たちがいます。そりゃお金なくなっても食べたいならサラ金か盗むかしかないですからね。そういった犯罪社会学(なのかな?)の視点からしても、こういった治療への国ないし国民の理解を得るためにも、研究が必要だなと思います。摂食障害のみならず、あらゆる依存症、社会問題(老老介護やダブルケアなど)が背景にある犯罪に対して、きちんと構造を示して考えることが必要です。だって、最初から「犯罪者」という人たちがいるんじゃないから。社会が誰かしらを犯罪者に仕立て上げているだけだと思うから。
 
 
 
(コメント欄での自分の意見の抜粋:なんで研究者はそんなにダメなのかというか、そんなダメなのに研究者がそこそこいるのかということに関して)
 
自分のところの研究に関して言うと、自分の分野の足場を守るのに必死です。科研費の取り合いが主だと思うのですが、今はわかりやすい数字を提示できる見込みがないと科研費通らないみたいです。だから、新規参入分野への研究支援がなかなかなされないように私は感じます。以前の、スパコンの「2位じゃだめなんですか」のときに、国の理解があまりにもなさすぎるなって思いました。研究の意味を軽視してるっていうんですかね。長期的に積み重ねることで何かしらの意味が付与されると思うのですが、それを端的に切り取って是非を決めちゃっているというか。お役所の人たちは国家公務員試験で入ってるからなのかはわかりませんが、専門分野への知識は深いんですが、縦に深いだけで横に広い人ってあんまり見ないです。そういった縦割り行政の人たちが教育なり研究支援なりの方針を立てたり、経産省の人たちが企業の方針を立てたりすると思うので、トップダウンの現状を考えると、研究者が育たないのもやむなしだなあと思っています。
こないだラジオで雇用問題の話をしているときに「いっせーのーで、でみんなで(企業の雇用基準を)変えないと意味ないんですよね。」って研究者の人が言ってたんですが、一番変えやすいのはやっぱり上から変わることだろうなとは思うんです。だから、この場合で言えば、国なり学長なのかな。資金の支援源である企業でもいいんですけど、研究って大事なんだよってことをみんなが理解しないと、そんなん無駄、いらん、ってどんどん費用削減されてしまうんだろうなと思っています。頑張ってる人もいるんだけど、現状は(みんなの精神的余裕がないので理解への余地がなくて)数で負けちゃう。
現実的な手段としては、草の根運動かなと思っています。私の今やってることもその一種だと思っていて、とっても微力ですしまだまだ納得はしてもらえてないんですけど、でもいろんなことを複合的に見て考えることが大事なんだよって自分の言葉で(一方的に)伝えることはできつつあるんです。
研究者って、日本なら今は教授になれば身分が安定するのかなと思うんですが(それも一つの問題だと思っています)、助教ポスドクの生活の不安定さはひどいですよね。ポスドクで自殺する人も多いですよね(友人が来年度からポスドクになるので本当に頑張って欲しいです)。だから、自分の(ある意味命をかけた)生活のために、惰性的な研究をせざるを得ないのも、とってもわかるんです。強い信念を持って、ごくごく薄給でもうつ病になっても、自分の大切だと思う研究を数年間かけて(年数は2桁いくかもしれません)やり遂げて、今になってやっとそれが評価されつつある人もいるんですが、全員が全員それをやれるというのは期待できないです。それを今の段階でやってしまうと物理的に死人が出ます。
だから、教育や学問、研究を大切だと思ういろんな立場の人たちが、直接的に問題提起をしたり、いろんな形の草の根運動をしたり(例えば、子育てや学校の現場で教育を大切にするだとか企業で産学連携を大切にするだとか)、研究を支援したり、ただただいろんな関心を幅広くもつようにしたりしていくことが、地味だけど大切なのかなって思います。あとは、自分が今過ごしている社会が、そういう研究の積み重ねがあるから存在してる、という認識を持つことですかね。
難しいですね。

あ、ダメなのにいるっていうほうは、それでも自分の研究の意義を強く思っている、または対象が大好きでしょうがない、ないし、伝えなきゃと思うほどの何かがあるんだと思っています。で、まさしくその人たちは(大げさかもしれませんが)人生をかけてでもそれを伝えようとしているのかなと。草の根運動の一つの形の担い手だなって思っています。

ちなみに、データ重視になっていることも大きな要因だなと思います(研究支援が、経済分野やIT関係に重点が置かれつつあるように思うので)。面白いのは、やっぱり何かに偏る(データ重視)と、必ず反対意見が台頭してくることですね。その一つがつながりの重視だったり目に見えないものを大切にしようとする流れだと思います。こうやって紆余曲折しながら歴史を重ねていくんだなと思っています。まあ当人(今を生きる私たち)は荒波に揉まれるんで大変ですけどね。
 
M1のときに、自論を専攻内の授業でプレゼンしたことがあったんです。で、みんな身体面の理論には納得してくれて、最先端の研究の知見も含まれていて素晴らしいと近しい分野のポスドクの方や先生が絶賛してくれたんですけど(あなたの知見があって考えられることだから研究をし続けてほしいって言われてとても嬉しかったのを思い出しました)、精神面に関しては「???」って感じだったんです。(自分で症状を体験したわけではないので)想像ができないのかなあと思いました。逆に、文系の子に話をしてみると、精神面に関しては納得してくれるんですが、身体面の理論に関して「???」ってなってしまって。あー文理で互いに断絶しているなーと感じます。いろいろ共有すべきだと思うんですけどね。