人生暇つぶし

恩師である教授の口癖。人生暇つぶし。学問暇つぶし。

葉脈

 どうして線引きをするのか。そうやって括られると、私は死ねと言われている気がする。若者は何歳まで、と制限をする。高齢者は何歳から、と制限をする。学生は何歳から何歳まで。学歴は◯◯大学以上でないとダメ。資格を持っていないとダメ。

 小学生のときに小学生ができなくて、中学生のときに中学生ができなかった。高校生のときは少しだけ高校生ができた気がするけれど、大学生になったらまた大学生ができなくなった。「普通に」すごすことができない。普通に学校に通って、普通に友人と遊んで、普通に何かに打ち込んで。そんなことができなかった。与えられたその瞬間にそのことをできなければ、そのあとにそれはやってはいけないのか。権利は剥奪されなければならないのか。

 よくわからないうちに、いわゆる大人というものの年齢になった。それでも、大人になったなあとは思えない。だって、生きる術もきちんと身につけていないし、常識といわれることもよく知らないし、そもそも昔の自分が今の自分を尊敬できるかといったら、それはない。でも、周りにいる大人で、尊敬できる人はほとんどいない。大人ってなんだ。

 括ると安心するのか。脅かされない空間をつくれるのか。他人をむやみやたらに排除した空間は、裸の王様の第一歩ではないのか。

 傲慢な人たち。「自分たちは誰々のために頑張っている」という傲慢な人たち。いくら肩書きを積み上げようとも、そうすればそうするほど、その誰々とやらは、あなたたちを神格化するか敵視するかの二極化になるだけだ。手を差し伸べようとした誰々を、あなたたちの手で首を締め上げてゆく。それに気づかない限り、虚しい馴れ合いが続くだけだ。

 人が生きること、それは何人たりとも侵害してはならない。あなたの自己満足は誰かを殺す。

矛盾しかない

あらゆることを決められ続けて、やりたいことも全部曲げられて、自己責任と言われるもののその中の何が自分で選択したことなのかよくわからなくなる。自分で決めろと怒られるものの、そこには自分で選択したことが許されない環境があって、そうするとまた怒られて。意味がわからないよ。矛盾とは言わないのかこういうのは。はっきり言ってくれないとわからない。誤魔化して良いように取り繕われると適応できない。そんなスキルはない。すなわち空気を読めということだと思うが、そんなことができるなら今こんなところにはいない。

ぐらぐら

お金をとるか時間をとるかで悩んでしまった。一人暮らしだと貯金がほぼできない。時間はありそうだけど外に出かけるとしてそこに行くためのお金やイベントの参加費がない。実家だと往復2時間潰れるし土日は足もないだろうし近くに良い図書館があるわけでもないから引きこもって時間を浪費する。でも書いてて一人暮らしのほうが幸せそうな気がした。時間の浪費は一番つらい。一人暮らしなら自転車で図書館に行けるしまだ時間を有効に使えそう。
余暇における自分のやりたいことが何かがまだ定まらなくて、メタ視点はもうある程度浸かったから実践に移れと言われるものの、具体的な分野がまだ見つからない。働き始めたら何か出てくるだろうか。
のんびりした場所で、穏やかという意味でのゆるい人たちから、良いなあと思うことがいろいろ実行されている職場なんだけど、どこからそのアイデアが出てきているのかが謎。アンテナは高い。ストイックではない。社会的排除からは縁遠い人が多いのだろうか。だとしたら、自分にできることはその少ない人たちをきちんと包摂していくことだろうか。その人たちにつながるにはどうしたらいいだろう。その過程に小金を頻繁に費やすパターンで破産しそう。

見えない敵と闘う私たち

 私は生まれつきアトピーがある。後天的に摂食障害や社交不安障害などの病気になった。これらはどちらも新しい形の疾患だと思っている。メカニズムが不明瞭で、唯一無二の治療方法がない。不明瞭というのは不適切かもしれない、徐々にわかってきたこともある。それでも、薬や手術だけなど、西洋医学だけで完治するものではない。

 アトピーにはステロイドという薬が処方される。個人的に支持する仮説は、副腎のコルチコイドが食事なりストレスなりに大量に用いられることで皮膚の炎症を抑える際にコルチコイドが不足するというものだが、その仮説から考えればステロイドによって炎症が治まるのもわからなくはない。しかし、それは炎症抑制作用が主というよりも、コルチコイドの不足分をステロイドの塗布によって補うことに意味があるのだと思う。人間の身体の中で作られるステロイドを経皮摂取するからなのか、はたまたステロイドは関係なくアトピーによる色素沈着が残っているだけなのかはわからないが、ステロイドを塗ると黒くなる、というのはアトピー患者ならよく聞く話だ。ステロイドの強さもまた段階があるため、それによって耐性ができてしまうこともあり(そもそも長期的に塗るものではない)、脱ステロイドという治療方法もよく話題に上がる。ステロイドや保湿はその是否がまだまだ議論され続けている。

 精神疾患にも似た様なものを感じていて、はて薬が効くやら効かないやら、認知療法がいいやらダメやら、カウンセリングはどうだの、いろいろな意見がある。自分の場合は、薬はあまり効かなかったように思う。程度がそれほど深刻でなかった(基準は人それぞれだが)ため、調子が悪い期間は日常生活が壊滅的ではあったものの、時間と環境を変えたことが投薬よりも治療につながったように思う。精神疾患は脳に異常があるケースが多いのではないかと思っているが、一人で生活ができないというケースを除いては、環境が整えばどうにかなることもあるのではないだろうか。自分の場合も、今は断薬をしているが、光にはサングラスなり日傘なりの遮光、臭いにはマスク、音には耳栓なりイヤホンなりでどうにかやり過ごしている。端から見れば不審者だが、それ無しで過ごすことができないのでしょうがない。あとは適度に場所を避けたり物や人を避けたりして自己防衛するくらいしか。避けられない時は困るし割とあるけれど、とりあえず寝込む。頭痛はひたすら我慢。寝られない時はとりあえず目を閉じる。だって薬飲んでも変わらないからそうするしかないよ、という感じ。これって「にわか」精神疾患者なのだろうか。

 薬を飲んだり塗ったりすることがむしろ自分にとっては大きなストレスになっていて、医療費もバカにならないのでそういうのが要らない環境が欲しい。ノーマライゼーションの概念が、障害のある人でも普通に暮らせるという部分にフォーカスされすぎてバリアフリーと混同されてないかなと思うことがままあるんだけど、ノーマライゼーションってある意味そういう環境づくりもその中に含まれているんじゃないのかな。そう考えてみると、社畜を生み出す労働至上主義みたいなのはあかんのじゃないかな。資本主義を問い直す意味って、そういう部分にもあるんじゃないのかな。マス取りゲームはもう限界にきているから、経済のあり方を変えていかなきゃいけんのよね。

何が正しいだとか、何が正しくないだとか、そういうことはいろいろとあるんだけれども、疲れてしまった。考えることが億劫だ。全速力で走り続けることなんてできないのだ。求められようとも、心は折れてしまった。
必要なことができなくなると、生きる意味がわからなくなる。ただひたすら雨音を聞いて、身体を塞ぐだけの生物。そこには意志などなく、役目もない。責任も全うせず、死にゆくだけ。屍と変わらない。
自分がこうしている間に、あの子は一抜け輝いた。あの子ははたまた崇められた。あの子は努めて褒められた。自分は何もしていない。
同族嫌悪の魑魅魍魎だから、馴れ合いすらも受け入れられず、寂しがるくせに孤立してゆく。羨ましいだけなのに、それすらも表現できない赤子以下の能力の乏しさ。特別でないことはもう嫌という程自覚したのに。上にも下にも入りきることができない。ありふれた生物。一人が一億いるのではなく、一億人の中の一人にすぎない。個人ではなく、コマなのだ。
雨が降っている間だけは許してほしい。人間でいてもいいじゃないか。全身から出る膿を出し切ったら、またやり直せるのかな。目を覚ますたびに滲出液の臭いがする。あと何度繰り返せば、空っぽになれるのだろうか。

イヴァンイリイチの『生きる思想』が描く人間というもの

 イヴァンイリイチの『生きる思想』を読んだ。この本すごく好きだ。

 人が生きることは、住むことでも搾取されることでもない。その人がその地において個人を育むこと、その背景には文化があり、その影響を受けながら、自分を自分で生きてゆく。モノによって生かされるのでもなく、モノのために生きるのでもなく、自分のために自分を生きる。

 歴史を辿れば、失われた文化が見えてくる。今や科学は誰のために何のために存在するのかよくわからないが、地球上のあらゆるものを資本として考えてゼロサムゲームになったのは、物理学のエネルギーという概念を読み違えたときからなのかもしれない。ジェンダーの概念が(悪い意味で)壊され、それによって人間は一つの生命≒コマとして扱われるようになり、あらゆる人間たちの責任は機械化され、制度化され、アイデンティティを喪失していった。開発によって、逆進性が生じているのだ。そうして社会関係は変化してゆく。人間が暮らす場所においても、誰のものかわからない共有地が増え、それが施設化されることによって「生きる」場所はすり減らされてゆく。車のために歩道や広場はなくなり、遊ぶことも語ることもくつろぐこともままならず、人間は閉じ込められてゆく。人間の役割は、専門家によって意思を奪われ、モノによって存在意義を奪われる。選択肢など、あってないようなものだ。奪われた人間たちは、自分のアイデンティティを、自分自身ではなく、モノの所持や肩書きなどの外部に求めるようになる。本来、人間の役割を補助する役割が主であったそれらが、人間にとって代わる。そうして、人間は意欲を失い、希望を失う。何かに縋れども、そこに己は存在しない。

 共同空間が経済的資本にとって代わられたときから、人間は市場に組み込まれてゆく。生きる技術を失った人間たちは、それに参加せざるを得ない。市場に生きる人間は物質的に豊かであれど、精神は満たされない。無力感による貧困は今も蔓延していて、それをそれと気付かずにただただ墜落してゆく。しかし、開発が飽和しつつある現在では、それに意を唱える者も多く、本来の「学び」によって生きる技術を取り戻そうという動きがある。市民運動であったり、資本主義によって形成される制度から逸脱した仕事を作り出す人たちのことだ。学びとは、教育の根源であり対峙する概念でもある。人間が人間たる生き方をするために、共有空間や慣習を用いて生きる技術を学ぶことである。搾取要因として容れ物にされるのではなく、自ら学ぶのだ。これは、先日読んだフレイレの『被抑圧者の教育学』でも同じようなことが書かれていたように思う。

 戦後史の教育特集を見ていたときに感じたのは、国や教育機関が目指すものは、生きるための知恵としての学びの教授ではなく、あくまで労働者の育成であり、国の技術発展を目的としているということだ。そこには、個人などというものは存在してはいけない。個人が生きることなどどうでもいい、技術発展にそぐわない考えは逸脱者として排除せよ。多様化など管理しきれないものは許さない。ヒエラルキーを崩す気はない。常に王と奴隷の関係がそこにはあるのだ。本文中にあるフーゴーからの引用によると、学問とは人間的生の3つの不十分さを癒す手段であるという。無知に対する知恵の探求、悪徳に対する徳の探求、肉体の弱さに対しては必要な生活の質を得る能力の追求。日本が目指す姿とはかけ離れているように思える。人間が人間たる意味は、そこにはあるのだろうか。

 また、生きる技術は、健康という概念に波及する。開発は技術の発展を伴う。それは寿命を延長させ、今や倫理的にはなされないものの不老不死に近づきつつある。医療という名のメンテナンスによって、その身体を維持する。健康の追求は、新たな病気を生み出してゆく。私は一応その方面の専門家なわけだが、生きることの追求をもしてきたつもりでもある。自分の身体を実験台にして、イリイチの言葉を借りれば、快の感覚や痛みの感覚に身体という場所を与えてきたつもりだ。この実験は永久に続くわけだが、それをすることで、生きることと生かされることの違いは感覚的にわかるようになってきた。昔は生かされることを生きることとして学ばされてきたが、それを否定する権利が(管理社会の中では生きられなくとも)あるのだということもわかった。自分の論文で、ある意味で生命を数値化することをしているわけだが、それに対する違和感もわかるし、また、それを敢えてやる意味が「教育」の下においてはあるのだということもわかる。生きることは難しい。権力の支配の下に、権力に個人を奪われた人たちにそれを認識させて行動することもまた、難しい。

 好奇心と違和感には、世間的に好ましくもそうでなくとも、忠実に生きてきた。違和感を同じように感じている人たちはままいて、ある人は社会に馴染んで個人を殺し、ある人は馴染めずに引きこもり、ある人は死を選択した。私はといえば、馴染んだこともあるし引きこもったこともあるが、今やどっちつかずで過ごしている。言いたいことが言えているものの、はたして次の場所で排斥されずに今のまま過ごせるのかはわからない。それでも、自分が間違っているとは思わない。間違っていることももちろんあるが、それはそう感じたときに修正しながらの今がある。私は支配されることに対する違和感をずっと抱いていて、そこに見え隠れする精神の貧困と常に対峙しているような気がする。それに流されてしまえば考えなくなって楽なんだろうけれど、そうしたくない。私というアイデンティティを喪失する気がするから。そして、その貧困は私の友人たちを追いやったものでもあり、また、昔の自分を殺したものでもあるから、私は私のエゴの下にそれを許さない。権力には屈したくない。イリイチが示していたのは、対象物の社会的背景ないしその背景を形成してきた歴史を知ることだ。それは最近本当に必要性を感じていたことで、その一つとしてこうして本を読んでいるわけである。歴史は積み重なっているもので、本を読むと、著者が受けた影響が至るところに散りばめられており、今回もフーゴーとポランニーに興味を持った。本は良書とそうでないものの差が激しいので、読んでこうして長々と思考できる本に出会えたことはこの上ない幸運である。最近でいえば、パウロフレイレ福澤諭吉広井良典さんの本は読めてよかったと思う。こうした人たちの背景もまた気になるもので、そうすると、アーティストも気になる。DIR EN GREYの京さんやTHE BACK HORN山田将司さん、菅波栄純さんは、その世界観に共通するものがあるように思うので、非常に興味深い。絵画で言えば、鴨居玲や昨日知った篠田桃紅さんなど。私が高校1年次に人間科学部に興味を持っていたのも、こういった内在要因があったのかもしれない。そう思うと、知識をつけるということは制限が増えることでもある。何も考えずに突き進めばよかった。というか、人間科学部なら転部できたのかもしれない。いや、後悔するのはやめよう。

 私は私の思う私を生きたい。それは望まれないものかもしれないが、それでも私はそうありたい。

早起きをして体内時計を調整したい

おぞましい夢を見た。晩夏の夜7時頃に、最近よく見かける後輩の男の子と部活の後輩の男の子と歩いて地元の駅に向かっていたら、ごつめのロケット花火が打ち上げられて、落ちてきたときに人に当たって腕がもげるという。私服警察官もいて、すぐに被害者に駆け寄ってるくらいなのに、信号のところにいた犯人は普通に花火をぶん投げている。何か変な雰囲気だ、危ない、と誰しもが気づきながら、自分だけががっつり犯人も花火を投げた瞬間を見たのが不気味で。一緒に歩いている2人も無関係すぎるんだけど、事故の予兆でないことを願う。
ところで、寝る前も起きてからも下から話し声が聞こえてくるんだけど、彼らはいつ寝ているんだろう。寝る前はすごく笑っていたのに、今はなんだか喧嘩しているようだ。忙しいな。

最近なぜか昔のことをよく思い出す。自転車で母親と出かけるときに、後ろを走られるのがすごく嫌だった。道を間違えるんじゃないかとか、いつの間にか置いていってしまっているんじゃないかとか、とにかく不安が大きくて嫌だった。前にいて道を示してほしいと思っているところに自分のクズさ加減や不安症っぷりが表れている。一人で動くときは自分が困るだけだからフラフラ歩くのは全然平気というかむしろ気楽なんだけど、他人といると気遣うことが多い。
また、自分は恋愛の話をよくしていたんだけど、それは他の話題がないから手っ取り早くて都合のいい万能のネタだったということにも気づいた。恋愛くらいなら、周りの子と同じように、誰かを好きになって、付き合って、ということがあったので、共通の話題として使えたんだろう。音楽の話や本の話、自分の興味のある話はできる人がいなかった。今でなら話題ごとに相手を変えればいいとわかるんだけど、そのときは全てを話すことができる相手が必要だと思い込んでいたのでつらかった。しかも変えるということに気づいたのがわりと最近なので、長いこと苦しんでいたように思う。まあ今になっても話したいことを話せる相手はいないんだけど、長いこと人と話すということをきちんとしてこなかったので、自分が本当は何を話したいのかもよくわからない。議論がしたいわけではないらしい。議論というよりも、会話や対話がしたい。それらをすっ飛ばして議論など不可能なのに、議論をしたがる人種は一定数いる。疲れる。社会のことから生態系のことから、何でもかんでも構造についてああだこうだと考えるのが好きなんだけど、それを一緒にああだこうだと考える人がいたら面白いだろうなと思うことはある。出会えることに期待はしていない。
自分は変だ変だと言われてきたから人と違うということをアイデンティティにせざるを得なくて今まで来たけれど、わりと凡人であることが最近ありありと感じられて、アイデンティティ崩壊とまではいかなくとも少し寂しい気持ちになる。結構な凡人だ。自分が考えるようなことは誰でも思いつく。アイデアは突飛でも何でもない。そうなると、自分らしさがわからなくなる。他人と比較すると上にも下にもキリがないので無意味なのはわかっているけれど、それでも何かに秀でているわけでもなし。はたして自分とは。